60000kikaku* | ナノ


一瞬、何かの見間違いかなと思った。
違う、そうじゃない、本当はそう思いたかっただけだった。
あんなの、嘘だ。そんなわけない。
ウォーカー先輩が、あんなこと、するはずない。
神木さんが、あんなこと、するはずない。


本当に?
もし本当にそうだとしたら?


信じてるし、そうであってほしいとも思う、けど、




「…嫌なとこ、見ちゃったなぁ」


もしかしたら先輩に会えるかも、
そしたら、久しぶりにゆっくり話ができるかな
なんて、淡い期待を抱いて

社食になんて、行くんじゃなかった。



「…ごめん李桂くん、ちょっと用事思い出したから先行くね」





 あわせいと*7




「あれ?みょうじはまだ戻らないの?」
「さっき取引先から戻ってきてたよね?」
部署の片隅で交わされた会話は、漏らすことなく僕の耳にも届いた。なまえちゃん、どこ行ったんだろう。…さっき、社食の入り口で似た後ろ姿をちらっと見た気がするけど、あの時間は確か、まだ取引先から戻ってなかったはずだし。
「…さん、ウォーカーさん?」
「…え、あ、ごめん、何だっけ」
「大丈夫ですか?ぼーっとしてましたけど」
いけない、今李桂たちと新規の取引先についての打ち合わせしてたんだった。

「俺、ちょっと探しに行ってきます」
よく通る声が聞こえた。思わず振り向くと、仲村がジャケットを片手に走り出しているところだった。
「あのっ、みょうじならさっきトイレに駆け込んでいったんで、しばらくしたら戻ると思います」
李桂がそう言うと、「そ、そうか、なら仕方ないな…」と妙に気まずそうに社員が苦笑いを浮かべた。が、その一言で騒ぎにならずに済んだようだ。
「…李桂、なまえちゃんと会ったの?体調悪そうだった?」
こっそり彼に耳打ちすると、「いえ、あれ嘘です」とあっさり返答してきた李桂。
「え?」
「ほっとくと騒ぎになりそうだったんで。…俺の勝手な予想ですけど、多分あいつ、どこかでくすぶってると思います。体調とか、そういうんじゃないと思います」
「…李桂、それは…」
なまえちゃんと李桂は入社時からの同期だし、お互い仲が良いのは知ってる。そんな彼がそう言うなら、恐らく本当なのだろう。
…正直、悔しいな。本当は彼氏である僕が先に彼女の様子に気付いてあげなきゃいけないのに。
「最近あいつ、ちょっと無理してるっつーか、何か溜め込んでる感じはしてたんですけど…多分、何かのきっかけで溢れちゃったんじゃないっすかね。でも、多分泣いて吐き出したらそのうち戻ってくると思いますよ」
「っ…李桂、あのさ、」
「ウォーカーさん、今大事な仕事の打ち合わせ中ですよね。仲村の奴みたいに、すぐに仕事放り出せるほど無責任な立場じゃないでしょ、こんだけ下っ端がいる前なんですから」
僕の言葉を打ち消して先回りするように、李桂は言った。僕のしようとしたことを、恐らく彼は読んでいたのだろう。知った上で、それでも李桂は、彼女を探しに行こうとする僕を引き止めた。
「…ウォーカーさん、俺正直、ちょっとウォーカーさんにがっかりしてます。みょうじの彼氏なんですよね?なら何であいつ、あんなに無理して取り繕った顔してるんですか。あいつがもっとウォーカーさんを頼って発信できればそれに越したことはないっすけど、そういうのが苦手な奴だってウォーカーさんも知ってますよね。…同期だからってあいつを贔屓してるわけじゃないっすけど、彼氏なら、もっと支えてあげたらどうなんですか」

李桂の言葉は、僕の心臓を的確に刺してきた。もっともな言葉だった。

「今のウォーカーさんが、あいつにかける言葉なんて、あるんですか?」






***

…あ、お昼休み、終わっちゃった…。
「…戻らなきゃ…」
人気のない会社の裏庭でずっとうずくまってたら、足がしびれて上手く立てなかった。今が5月で良かった。寒い日だったら、とっくに凍えていただろうなぁ。

泣きすぎて、目が厚ぼったい。腫れてるよね、これ。どうしようかなぁ。

「っ…ぅー…」

油断するとまた涙が出てくる。
馬鹿だなぁわたし、こんなに泣くことじゃないのに。




ほっぺにキス、してただけ。
手を握ってた、だけ。


きっと、話の流れでそうなっただけで、そこにやましい気持ちとか、そういうのは、ないんだと思う。何の話をしていたかは分からないけど。

きっと、わたしは、悔しかったんだ。
嫉妬とか、そういうこととはちょっと違ってて。

仕事で忙しくて、先輩としばらくゆっくり話せてなかったし

よく分からないけど、仲村くんとの時間ばっかりになってるし

本当はウォーカー先輩と仕事したいなって、思うけど

でもそう思ってるのはわたしだけなのかな、って。


そういう不安を打ち消したくて、先輩を探して、社食で見つけて、

そしたら、神木さんと、話し込んでて…わたしなんかが、入る雰囲気じゃ、なくって。


先輩は、もうわたしのこと、好きじゃなくなっちゃったのかなって、思えてきちゃって、そしたら、もう、胸がいっぱいで、溢れそうで、見ていられなくって。



疎外感

  焦燥感

羨望

  嫉み



 『そこは わたしの ばしょ なのに』




先輩との時間を、取られちゃった、気がした。








「…なまえさん、みーっけ。」


ふよふよと、空気みたいな軽い声が、した。ああ、この声は、

「こんなとこでどうしたんすか、探しましたよ」
「…うん、ごめんね、仲村くん…」
「…顔、見せて」
「……」
嫌だ、という表現を、わたしは首の動きだけで伝えた。
「…ごめん、もうちょっとしたら、戻るか、ら、…」


ふわり、

温かい体温と、重み。肌の感触。

感じたことのない、匂い。


  違和感。


「俺、なまえさんのこと、本気っすよ」




どこまでも、わたしは愚かだと思った。

こんな状況でも、どこかであの人が迎えに来てくれると
思っていたのだから。




混乱ベクトル
- 7 -


[*prev] | [next#]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -