60000kikaku* | ナノ

※心臓の病気に触れる内容です。自己責任でお読みください。尚、厳密に医学的な知識に基づいたものではありません。









子どもの頃からの憧れだった。
白衣を着て、毎日患者さんに笑顔で接して、「ありがとう」と笑顔で感謝されるような、そんな理想の看護師になること。

だけど、現実はその理想には遥かに程遠くて、

「…いたたた、ちょ、なまえの血液検査痛い」
「えっ、うそごめん!この辺?」
「痛い痛い!皮膚捻らないで下手っぴ!」
…実践の講義でわたしとペアになった子の腕には必ず痣が残るという、嬉しくも何ともない評判は、この校内の一部で既に広まっていた。まったく迷惑な話だ。

そんな看護学生らしからぬわたしも、いよいよ臨床実習で病院にお世話になる時期がやってきた。
「……でかっ…」
実習先は、附属の総合病院。大きな病棟を目の前に、わたしはただ口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしてしまった。


途端、びゅううぅっ、と巻き起こった強風が、わたしの手元をかすめていった。
「あっ、わわっ、」
バサバサバサッ、まるで怒鳴り声のような音を立てて、持っていた書類たちが風に乗ってわたしから離れていった。え、ちょっ…えええ!?
「まっ、ままま待って…っ!大事なっ…」


ひゅう、

小さく風が止んで、飛ばされた書類たちは、ある一所に集まって落ち着いた。


入院患者用のスリッパにまとわりついた書類たちを、『その人』は、ゆっくりと屈んで拾い上げてくれた。



銀灰色の綺麗な髪と、白くて華奢な身体に纏われた白いシャツが、風でふわりとなびいていた。


一瞬、時間が止まった気がした。

間抜け面のわたしを見て、彼はくすくすと、まるで空気みたいに綺麗に笑った。そして、手にしていたわたしの書類を丁寧に整えて、「はい、あなたのですよね」と差し出した。


綺麗な声だなぁ、とか
外国の人だと思ったけど日本語なんだ、とか
目の色、ビー玉みたいだ、とか
色んなことをあれこれ考えたけど、

綺麗で儚い雰囲気から目が離せなくて
わたしは


たゆたう白に、ひどく泣きたくなったのだ。






それが、アレンさんとの最初の出会いだった。





***

扉の前で呼吸を整え、よし、と小さく気合いを入れる。白いカーテンを開けて、スイッチの入るわたしの表情筋。
「おはようございます、血圧と体温測りますね」
実習開始から数日が経ち、血圧測定と検温は看護師さんの見守りのもとで、少しずつやらせてもらえるようになった。この毎朝の病室回りが、唯一患者さんとコミュニケーションが取れるまともな時間なのだ。

「お嬢ちゃん、今日のベッドメイキングもあんたがやるのかい?」
「…きょ、今日もやります」
「だってよ菊さん、今日も皺にならねぇように指導したほうがいいみてぇだよ」
「ちょ、どういう意味ですかそれ!菊さんもあからさまに呆れた顔しないでくださいよ…!」

…ただ、どういうわけか、入院患者さんたちにはからかいの対象にしかならないらしい。何でだろう…!小杉さん(68)も菊さん(87)も、未だに笑いを引き摺りながら、渡した体温計を震わせている。一緒にいる看護師さんにまで笑われる始末だ。


「…ふ、はは、っ」

…ああ、ほら、『あの人』まで、声を殺して笑いだす。

「…笑ってるのバレバレですよ、アレンさん」
むすっとした顔で睨みつけた先には、ベッドから上半身だけ起こした彼の姿。アレンさんは目尻の涙を小さく拭いながら「…すみません、つい」と、半笑いで言った。泣くほどおかしかったですかそうですか。
「…別にいいですもん、笑いは健康に一番効く薬ですもん」
「あはは、そ、そうですねっ…ふはっ、」
「…笑いすぎじゃないですか?」
そう口を尖らせると、アレンさんは「ごめんなさい、血圧お願いしますみょうじさん」と、未だに引き摺る笑いを抑えながらシャツの袖を捲りあげた。


 

―301のアレン・ウォーカーさん。

先天性の心疾患で、先月から入院してる患者さん。

心室中隔欠損症。生まれつき心臓に穴が開いている疾患。

今は感染症の治療と、来週の手術に向けた準備を進めている。



…アレンさんのカルテを見ながら、先輩看護師さんに教えてもらった情報を頭に巡らせた。
「…みょうじさん?おーい、」
「わっ、え?」
「大丈夫?血圧終わったみたいですけど」
わたしの目の前で、細くてしなやかな手がひらひらと動いた。慌てて測定器を戻し、アレンさんに軽く頭を下げた。

「ほんと、すみません、効率悪くて…」
「あはは、いいですよーゆっくりやってください」
仕事が覚束なくて落ち込んでいるわたしに、アレンさんはいつも優しく声をかけてくれる。いいひとだなぁ。ふんわり笑う姿が天使に見えて仕方がない。白衣の天使を目指すべきはわたしのはずなのに。
「アレンさんはいつも優しいですね、励まされます」
ぽつり、思わず零れた本音。はっとしてすぐに口をつむんだ。いけないいけない、ただの実習生が患者さんに軽い気持ちで話しかけちゃいけない。
「何言ってるんですか、励まされるのは僕達の方ですよ」
にこ、と柔らかい笑みで口を動かしたアレンさん。
「患者一人ひとりと丁寧に話すでしょう、みょうじさん。この毎朝の診察が、実は結構楽しみだったりするんですよ。そういうとこ、僕は好きだなぁ」
「……っ!」
ああ、もう、このひとは、
「…え、あの、みょうじさん?」
「〜〜っ、こ、こっち見ないでください…!」
恐らく真っ赤になったであろう自分の顔を、カルテボードで隠した。それでも、わたしの顔をしきりに覗きこんでくるアレンさんに、わたしの顔はみるみる熱を帯びるばかりだった。…優しいけど、時々出る無自覚な爆弾発言は勘弁してほしい。

「おーいお譲ちゃん、シーツ交換まだかい?」
「すすすすぐ行きます!!」
アレンさんからダッシュで逃げるように、速やかに菊さんのベッドへと向かった。その後ろ姿を、くすくすと小さな笑い声が見届けていたことを、わたしは気付かなかった。



「…小杉さんからは『娘を見てるようでほっとけないんだよなぁ』って笑われるし、菊さんからは手のかかる孫扱いされるし…何なんでしょう、わたしそんなに頼りないでしょうか」
休憩中、わたしの真剣な悩みに、先輩看護師さんは「まぁ、そうねぇ」とあっけらかんと返してくれた。あれっ?もっと何か、フォローとかないんでしょうか…!
「でも、それがあの方達の生き甲斐になってると思えば立派な役割でしょ?実際、菊さんも小杉さんも病状は安定してるし、アレンさんも、来週の手術に向けて順調だし」
手術、という言葉に、わたしは手に持っていた紙コップをそおっと置いた。
「あの…アレンさんの病気、って、やっぱり手術しないといけないんでしょうか」
心室中隔欠損症は、小さい穴なら自然に塞がるケースが多いって、学校で習った。心臓にメスを入れるって、やっぱりすごく怖いことだと思うから。
「確かに、自然に塞がればそれに越したことはないわよ。でもアレンさんの場合、塞がりきってない穴のせいで身体の免疫力が弱くなって、色んな感染症にかかりやすくなってしまうの。元気そうに見えるけど、日常生活に支障が出るレベルよ」
「…そう、なんですか…」
それ以上上手い言葉も見つからなくて、わたしは少しだけ俯いた。紙コップに入った飲みかけのココアは、すっかり冷めて色を薄く見せていた。ただ頭に浮かぶのは、アレンさんの優しい笑顔だけだった。








***

それは、息が白くなるほど、寒い寒い朝のことだった。


「酸素準備して!それから…」
バタバタと忙しなく廊下を走る看護師さん達に、自分の心臓がざわつく感覚を覚えた。病院にいる以上、こういうシーンは何度も出くわすけど、やっぱり今でも慣れない。こうしている間にも、誰かの命が危ぶまれているのだ。きゅう、と痛む胸を押さえて、ゆっくりと足を進めた。


その直後、自分の耳を、疑った。



「301の菊さん、容態が急変です!すぐにICUに移動の準備して!」



…菊さん、?






 嘘だ、

そんな、菊さんが、

昨日まで、笑顔で、そこにいた、のに、
だって、
だって、だって、そんなの、



「…しゃんとしなさい。あなたがそんな顔してどうするの、他の患者さんへの影響も考えなさい」
立ちつくして泣きそうになるわたしの後ろから、看護師さんの冷静な指摘がぴしゃりと刺さった。

「…だって、菊さん、すごく、安定してるって…」
そう、言っていたじゃないですか。

「…分かりきったこと聞かないで。ここで入院している以上、絶対安定してるなんて有り得ないのよ。…外で頭を冷やしてきなさい。そんな顔で問診させられないわ」







…早朝の屋上は、澄んだ空気が漂って、一粒一粒の霧の粒子が、うっすらとその存在を残していた。



…手が、震えてる。

情けないな、当事者でもないくせに、ちょっと患者さんと親しくなっただけの実習生のくせに、


こんなにも、命は不完全で、儚い。

怖い

すごく、怖い。






「……みょうじさん?」


澄んだ静寂を、誰かの声が静かに切り開いた。ゆっくりと辺りを見渡す、と、霧の中でうっすらと映える、銀灰色の髪が揺らいだ。


「…アレンさん?」
どうして、ここに?
「びっくりした、そろそろ問診の時間じゃないんですか?何でこんなところに…」
ゆっくりと近づいてくるアレンさんに、震える両手をさっと後ろに隠した。
「アレンさん、こそ、どうして…」
たどたどしくそう問いかけると、アレンさんは何も答えず、ただ綺麗な顔をほんの少しだけ笑顔に変えるだけだった。

「…何を、隠してるんですか?」
震える両手を悟られないよう、わたしは彼から顔を背けた。
「…みょうじさん、どうしたんですか?」
「…何でも、ないです、」

お願い、お願い
どうか気付かないで。


「…菊さんのこと、そんなにショックだったんですか?」

そう静かに言うアレンさんの声は、怖いくらい、無感情だった。


「…アレンさん、は…悲しくないんですか…?」
思わず、口から出た言葉。
「菊さん、ずっと安定してて、昨日まで元気で、…でも、今は、意識が戻らなくて…何で、急に、」

頻繁な嗚咽と、涙声と、短い単語。今のわたしの言葉は、その3つで成り立っているようなものだった。こんなこと、アレンさんに言ったって、どうにもならないのに。




「……みょうじさん、僕の病気が何なのか、知ってますよね」

アレンさんのひどく冷静な問いかけに、わたしは少し躊躇った後、小さく頷いた。それを見たアレンさんは、ゆっくりと自分の胸に手を当てて俯いた。

「…僕の心臓は生まれつき欠陥品だったけど、小さな穴だったから、成長とともに自然に塞がるって言われてたんです。だから子どもの頃は運動も制限されなかったし、普通の生活ができたんだ。
でも、社会人になって、仕事に追われる毎日の中で、頻繁に体調を崩すようになった。…塞がってるはずの穴が、しっかり残ってて、それが僕の免疫力を弱めていた」

アレンさんの笑顔は、崩れなかった。


「…手術だって、100%成功する保証なんてない。安定してるって言われた菊さんだって、ああなったんだ。ここはそういう場所だよ。
僕達がここで生活している以上、誰に何が起こるかなんて、誰にも分からないでしょう?こんなことでいちいち動揺していられないんです」


ひゅう、と、小さく風の音がした。
それは、初めてアレンさんと出会ったあの日の風とは、似ても似つかないものだった。


だって、おかしいよね、
あの日よりも、アレンさんが、





「いつも、命の脆さと隣り合わせにある僕達の気持ちなんて、君には分からないでしょう?

そうやって、分かってるような態度、取らないでください」



ずっとずっと、遠いひとに、見えたの。





***

…あれから1週間が過ぎた。幸か不幸か、あの日からわたしの実習配属の科が変わり、菊さんとも小杉さんとも、アレンさんともほとんど顔を合わせられなくなった。
…菊さんの病状は落ち着いたものの、意識はまだ戻っていない。もやもや、心臓にたくさんのしこりを残したまま、わたしは実習ノートとレポートの山に追われた。


実習ノートを記入しながら、日付を見て手を止めた。

今日は、アレンさんの手術の日。



ずきずき。もやもや。
自分の心臓が、たくさんのしこりに手を焼きながら、わたしに訴えかける。

『このままでいいの?』

『何も伝えなくていいの?』






…アレンさん、
わたし、何にも分かってなかった。
菊さんのことも、アレンさんのことも、何一つ。
分かりたくて、だけど、分かった気になってるだけだったの。


アレンさん、今ね、
ひとつだけ、わかったことがあるんです。



「…すみません、忘れ物を取りに行ってきます」

勢いよく席を立ち、返答をもらう前にわたしは走り出した。
慣れ親しんだ病室に着くと、驚いた表情の小杉さんと目が合った。そしてすぐににやりと笑って、
「アレンくんなら、今麻酔に向かったとこだよ」
まだ間に合うんじゃねぇの?と小杉さんは言った。

小杉さんの親指の示す先に、わたしはすぐに走った。

走ったその先に、横たわったアレンさんが、目に入った。



「アレンさんっ!」
名前を呼んで駆け寄ると、既に麻酔が効き始めているようで、辛うじて意識を保っているように見えた。
付き添う看護師さんに頭を下げて、わたしは彼の顔を覗きこんだ。

「…アレンさん、わたし、何も分かってませんでした。今も、分からないことばっかりだし、まだまだ、知らないこともたくさんあります」

だけど、これだけ、分かったんです。

「わたしは、やっぱり看護師になりたいです」

「毎日患者さんと向き合って、お話しして、たくさん笑ってもらえるように、また明日も笑っていたいって、そう思ってもらえるような看護師に、なりたいです」




「        」


アレンさんの口が、小さく小さく、動いた。そこからこぼれる言葉は、とてもとても小さいものだった。

だけど、ちゃんと、聞こえたよ。
ちゃんと、届いたよ。











「『なりたい』じゃなくて、『なる』んでしょ?」




風を仰いだ、頬を掠めた
(手術、無事に終わって良かったですね)
(びっくりしましたよ、まさか手術直前に来るなんて、心臓に悪いです)
(大丈夫ですよ、その心臓、ちゃんと穴も塞がってますから)
(そうですけど…あ、そこ皺寄ってますよ)
(え!?あっ、ほんとだ…!)
(ふはっ、明日菊さんが戻ってきたら、またベッドメイキングの指導してもらわないといけませんね)





***************

*みけさまリクエスト*
『看護学生とアレンさん』

看護実習って、本当につらくてきついらしいですね。。
けいは基本ハッピーエンド主義なので、菊さんには踏ん張って復活してもらいました。アレンさんと女の子がこれからどんな関係になっていくか、楽しみですね!(人事)
みけさま、すてきなリクエストありがとうございました◎

2012.11.27*

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