dgmこびん | ナノ

「わたし、あなたを知らない」

不安げな顔でそう呟いたのは、昨日まで当たり前のように僕の隣にいた彼女。本当に初対面のように振る舞う彼女に、僕は目の前の事実に頭が追いつかず、動揺を隠せなかった。











今日、僕はいつものように彼女の隣で目を覚ました。いつもなら僕が先に起きていることが多いのに、今朝は珍しく彼女が先に身体を起こしていた。
「…おはようなまえ、先起きてたんだね」
少しだけだるい身体を起こし、まだ眠いと訴える両目を擦りながら、彼女に声をかけた。『おはようアレン』という優しい声が返ってくることを期待していたはずなのに、彼女からはそれが返ってこなかった。不審に思った僕は、「…なまえ?どうかした?」と再度名前を呼んで、その華奢な肩に手を伸ばした。
僕の手が肩に触れた瞬間、彼女はびくんと身体を大きく弾ませ、振り返りながら何故か僕の手を拒むように身を引いた。振り返った顔は、紛れもなくなまえだったけど、見たこともないくらい怯えた顔をしていた。彼女の両目には、僕の姿が映されていた。
「……なまえ、どうしたの…?」
薄着の上半身を隠すように毛布を抱きかかえるその両手は、見て分かるほどに震えていた。その直後、彼女の口から思いがけない言葉が小さく発せられた。


「…あなたは、誰、ですか…?」


…これはただならぬ事態だ。そう直感した僕は、寝起きだった頭をフル回転し、何とかこの状況を把握しようと試みた。何かの冗談だろう?でも僕の脳の冷静な一部分が言い諭す。『彼女がこんな悪質な冗談を言うはずがない』。何か怖い夢でも見て、まだ寝惚けているのか?例えば僕と同じ顔をした怪物が夢に出てきて、酷く怖い目に遭って、僕の顔を見てまだ混乱しているのかもしれない。そうでなければ、彼女がこんな怯えた目で僕を見るはずがない。

「…なまえ、怖い夢を見たの…?」
こんなに震えて涙目の彼女は、見ていてとても痛々しい。いつも花のように柔らかく笑っているはずなのに、彼女をここまで追い詰めた悪夢がどれほどのものか、想像したくもなかった。
「大丈夫だよ、僕だよ、アレンだよ、落ち着いて…」
「…あれ、ん…?」
「そう、夢じゃないよ」
「…知らない、わたし、あなたを知らない…ここはどこ…?」
「……落ち着いてなまえ、ここは僕達の家だ」
「…ち、違う、やだ、来ないで、」

…どういう、ことだ。
近づけば近づくほど、彼女は怯えて遠ざかる。だめだ、このままでは埒が明かない。そう冷静になった僕は、一先ずベッドから降りた。僕の一挙一動にいちいちびくつく彼女を見て凹みつつ、少し離れたイスに腰掛ける。距離ができたことで少し安心したのか(ホントいちいち凹む)、なまえの震えはほどなく治まり、毛布を握る手の力が抜け始めた。




***

「……『彼氏』…?」
「そう、僕はアレン・ウォーカー。なまえの彼氏で、半年前からこの家で一緒に住んでる」
少しずつ彼女の記憶を解いていく。
自分の名前は覚えている。
テレビとか歯ブラシとか、生活用品の名前や一般的な上位概念、言葉、日常の生活動作には何ら支障はない。
自分の生育歴や卒業した学校、勤務先だって分かっている。

ただひとつ彼女の記憶から抜け落ちていたのは、『僕と出会ってからこれまでの、2人で過ごした時間の記憶』のみだった。
つまり彼女は、僕と付き合っているということも知らなければ、そもそも僕という存在自体を知らなかった。

「……どうしよう、本気で凹む…」
「…ご、ごめんなさい、わたし自身も何がなんだか…」
「いや、うん、そうだよね…頭を打ったわけでもないし…とりあえず、一回病院に診てもらおう」
落ち着け僕、本気で困っているのは僕じゃなくて彼女自身だ。一応警戒を解いてもらったとはいえ、今の彼女にとっては、『見知らぬ男の家に勝手に連れ込まれた』みたいな恐ろしい状況なのだ。




***

医者の診察でも、はっきりとした原因は分からなかったが、『外部からの強い衝撃』『脳の損傷』でなければ、考えられるのは『強いストレスによる心因性健忘症』とのことだった。
(…悩んでるようには見えなかったけど、何か抱えてたのかな…)
いつも笑顔の彼女ばかりを見ていたからか、ストレスという言葉と彼女の姿が上手く結び付けられず、僕はただ混乱するばかりだった。
医者曰く、『そういう、表に出さない人ほど、知らないうちに抱えてしまっている』らしい。なるほど、そういうことなら少し納得できる。
「お待たせなまえ、飲み物買ってきたよ。今日はもう帰ろうか、移動長くて疲れたでしょ」
ただでさえ朝から混乱続きな上、家から少し離れた、脳神経外科のあるこの大学病院まで来たからだろう、かなり疲れた表情に見えた。
「大丈夫です、むしろ運転をお願いしちゃってすみません…」
「あはは、それは平気、よく2人でドライブ行ってたんだよ」
「そう、なんですか…」
思い出そうとしては頭を抱え、眉間に皺を寄せるなまえ。元々人にとても気を遣うタイプの彼女だ。性格が変わっていなくて少しほっとする。
「無理に思い出そうとしなくていいよ、少しずつ一緒に考えていこう」
そう言って彼女の頭を撫でると、彼女はびくっと肩を揺らして今朝のように僕から遠ざかった。…しまった、ついいつもの癖で迂闊に触ってしまった。
「ごめんね、びっくりしたよね」
「…いえ、すみません、まだ慣れなくて…」

…これは長期戦になりそうだ。
そう気合いを入れ直し、僕は助手席に座る他人行儀な彼女を乗せ、車のエンジンをかけた。
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