dgmこびん | ナノ

「…では、この場合の“that”が示すものは?みょうじさん」
ほわほわと、室内に心地よく響くアルトが、わたしの耳をかすめる。ふと顔を上げて、彼の立つ教壇に目線を送る。口角をほんの少し上げた彼と、ばち、と交わった。

「…“Mary´s cookies”です」
「そうですね、そうなると、この英文の訳は…」

わたしはゆっくりと腰を下ろし、再びノートに目線を戻した。彼の声を頭の中で解読しながら、解読したものをノートに書き込んだ。一通り書きこんで、再び彼の顔を探した。今度は彼は背を向けて、黒板にさらさらと流れていくような英文を書いていた。彼の人柄をそのまま反映したかのような、綺麗な筆記体だ。
生まれつきだという、赤く痣の残る左手。その指で、文字の端をほんの少し擦って消して修正した。「わ、間違えちゃった」という小さな小さな呟きを、大半の生徒が聞き逃さなかった。「『間違えちゃった』だって!かわいーアレン先生!」と、小声で騒ぐ女子生徒。わたしはそれを片耳でかわしながら、誰にも見つからないように、小さく微笑んだ。

たった一人だけが、その微笑みを盗み見ていた。







***

「……今日、笑ってたでしょ」
彼は水色のマグカップに口をつけながら、眉間に皺を寄せて不満を漏らした。
「何のことですか?」
「とぼけないでください、僕が英字を書き間違えたとき、うっすらニヤニヤしてました」
「ニヤニヤなんてしてないですよ、ただ、可愛いなぁと思って」
「…君までそうやって僕を馬鹿にするんですね」
先生は、やけになったみたいにコーヒーを飲みほした。本当は、苦いのあんまり好きじゃないくせに、そうやって大人ぶるところが、可愛い。

「先生?やだ、拗ねないでくださいよ」
「拗ねてなんかないです。君も、それ飲んだら早く帰ってください」
「先生が呼び出したんじゃないですか」
わたしは、先生に作ってもらった牛乳たっぷりのカフェオレをちびちび飲んだ。悪意はない、ただ猫舌なだけで。

「先生が字を間違えたとき、大半の生徒が『可愛い』って言って笑ってましたよ。だから、わたし悪くないです」
「…可愛い、って…僕は男なのに…しかも教師なのに…」
「あは、完全になめられてますねー、アレン先生」



コンコン、と、英語科研究室のドアを誰かが控えめに叩いた。
ガラ、とゆっくり開けられるドア。

「アレン先生、それじゃあ戸締まりの確認お願いしますね」
「はーい、お疲れさまです」
「みょうじさんも、遅くまでご苦労さま。次の英語論文も、期待してるわよ」
「はい、がんばります」


アレン先生を残して、最後の先生が退勤していった。

ガラ、と、ドアの閉まる音。






これが、『合図』。









「……相変わらずの、猫舌ですね」
ちっとも中身の減らないわたしのマグカップを覗きこんで、少しだけ強気に笑った先生。
「…いいじゃないですか、こうやって、熱いのをちびちび飲むのが好きなんです」
「気が長いんですね」
「先生と違ってね」

そう言って、にっこり微笑んでみせた。先生は机に肘を乗せて、頬杖をつきながら笑顔でわたしを見つめる。その無言の圧力が、先生の怖いところだ。




ふ、と、廊下の電気が、消えた。
人が、通らなくなった、証拠。



先生は回転椅子から立ち上がって、ドアに向かった。先生が突然動いたことで、びく、と、嫌でも身体が跳ねる。そんなわたしを、先生が見逃すはずもなく、

「…へぇ、緊張、してるんですか?」

そう言って、かちゃ、とドアの鍵を回した。

「…先生の、意地悪」


『若くて爽やかな、ちょっと頼りない英語教師』の仮面は、定刻とともに剥がれてしまうことを、この学校の生徒たちは知る由もない。


「そんなこと言って、本当は、期待してたんでしょう?」
「っ、」
そう言って、耳元でふふ、と笑った、先生。椅子に座ったわたしの後ろに立って、わたしの耳に、ちゅ、と口づけた。
肩に乗せられた先生の手に、ぐ、と重さが増す。

「…せんせ、カーテン…」
あいてるよ、誰かに見られちゃいます。そういう意図で言ったことを、先生は分かっている。にも関わらず、

「ああ、本当だ、…まだ部室棟に、残ってる生徒が、います、よね?」
そう言いながら、相変わらずわたしの耳元から顔を離す気配は、ない。

「…せん、せ、おねがい、っ」
「そんなに気になるなら、閉めてきたらいいじゃないですか、……なまえ」
「だってこれじゃ、動けない、です…」

「しょうがないですね、じゃあ、」
先生はなぜかひどく楽しそうに笑って、わたしから顔を離して、カーテンを閉めに歩きだした、

かのように見えた、のに、
先生は、カーテンには向かわなかった。


そのかわり、くるりと、わたしの椅子を回転させて、先生と向かい合うかたちになった。

そしてそれと同時に、額に、頬に、鼻に、唇に、容赦なくキスの雨をぽつぽつと降らせた。雨なんて生易しいものじゃなくて、もっと強くて、熱くて、怖いくらいの、キス。

「…ゃ、せん、せ、」
違うよ、そうじゃなくて、カーテン先に閉めてよ、
「…まったく、『可愛い』のはどっちですか」

わたしは嫌々と顔を背けるけど、先生の両手がそれを許さなかった。

「嫌だ、なんて、微塵も思ってないくせに」
先生はそう言って、わたしの首を舐めた。
ぼんやりとしてくる頭に、短く速くなっていく呼吸。わたしを見て、先生は呟く。




「カーテンなんてどうでもよくなるくらい、僕のことでいっぱいにしてあげますよ」



beyond the pale



(ねぇ、先生、知ってる?)
(本当はもう、先生のことで、いっぱいなんです。)








********

アレン先生、犯罪です。その柵越えたら犯罪です。
お目汚し失礼しました。

beyond the pale=「囲いの向こう側」
「道徳的に、または社会的に受け入れがたいこと」

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