上を見上げた。
空は名前通り、スカイブルーのポスターカラーで塗り潰したみたいな青だった。

少し視線を下げた。
木々は昨夜の雨を含んで、葉の一枚一枚がみずみずしい緑を纏った。

目を閉じた。
風はまるで、意志を持ったみたいに遠慮がちに僕の頬を掠めて、髪を掬った。


…耳を、塞いだ。
空も木々も風も、何一つかたちを変えなかった。
変わったのは、自分の両手の感触と、耳に感じる籠もった温かさ。

塞いでいた手を外した。
本来聞こえるはずの音は、相変わらず僕の耳には届かなかった。



ある人が言っていた。
朝、森に行くと、色々な種類の小鳥がチチチと鳴くのだ、と。
木々は風に揺らされると、さわさわと音を立てるのだ、と。

 チチチ
 さわさわ

もう随分と長い間耳にしていなかったそれは、すでに擬音語と化してしまい、フォントになって僕の脳内を駆け巡った。
そこには『風情』だとか『心地よさ』だとかは欠片も感じなくて、何の面白味もないじゃないか、と、この森に行くことを薦めた人を心の中でなじった。


「おかえり、かれのなまえ」
気持ちよかったでしょう?と、母の指が言葉を紡いだ。
僕は軽く頷いたあと、肩を擦って『少し寒かったよ』、母の目の前に開いた手のひらをゆっくり返して、心臓の前で柔らかく何かを揉むようにして両手の指を動かし、『でも、心地よかった』。

「そう、よかった」
母は僕の嘘にいたく満足したように微笑み、朝食の準備を進めた。

僕の手が、言葉になる。
それは多少の不便さを含みながらも、嘘を吐くには便利なツールだった。


何もない、この片田舎の別荘地。あるのは膨大な敷地と、そこに生い茂った木々と、怖いくらい澄んだ空気。このばかみたいに広い敷地が全て伯父の私有地だというのだから驚きだ。我が伯父ながら、なかなかの富豪である。




僕の耳が聞こえなくなったのは、5年前の冬。
はっきりとした原因は分からないが、何らかのショックで一時的に耳が聞こえなくなったのだと医者は説明していた。
母は僕にあらゆる治療を試したけど、音のない世界にさほど嫌気がさしているわけでもなかった僕は、それらの治療を受け入れ吸収する余地など持ち合わせていなかった。
聞こえようが聞こえまいが、実はどうでもよかったのだ。


「夏休みの間、うちで過ごすといい」という伯父の提案により、母と2人でこの別荘で過ごすことになった。要所要所で僕を病人扱いする伯父は、贔屓なほど僕を甘やかしたがった。




英語の課題を終えた夕方、台所で夕飯の支度を始めた母の姿を見つけ、肩にポンポンと手を添えた。

『課題が一段落したから、もう一回森に行ってくるよ』
そう伝えると、母は胸に手を当てて頷いた。
「分かった、夕飯までには戻るのよ」
母は微笑んで僕を見送った。



森の中は夕日でオレンジがかっていて、朝よりも寂しげに思えた。
それでもきっと、小鳥はチチチと鳴いているだろうし、風はさわさわと音を立てているのだろうと思った。



―――風が、やんだ。
とたん、森の空気が変わったのを感じた。僕はぐるりと周りを見渡して、奥の奥まで目をこらした。

……何かが、いる。
なんとなく、分かるのだ。

リスか、うさぎか、はたまた、熊か。
僕は足元に落ちている小石を拾い上げ、ある一点めがけてそれを投げ放った。



「ぃたっ!!」

「……!?」

そこに現れたのは、予想もしていなかった“もの”。

「いたた…びっくりした…」

頭をさすりながら(小石が頭に当たったらしい)木の合間から姿を見せたのは、僕と同じくらいの、女の子。

彼女は涙目で僕を一瞥すると、驚いたように目を見開いた。

「……え、誰?」
恐らく、「誰?」と言っているのが、口の動きから読み取れた。
「驚かせてごめんなさい、誰かいるなんて思わなくて…」
今度は「ごめんなさい」とその口が動いた。

何も発しない僕を不審に思ったのか、彼女は顔をしかめて覗きこんできた。

「ねぇ、聞こえてる?」
僕の顔の前で手をひらひらと動かす彼女。
僕はふと思い立ち、ズボンのポケットから小さなメモ帳を取り出して文字を綴った。

【ごめんなさい、頭痛かったよね】

彼女はメモと僕の顔を交互に見つめ、少し考えた後、口を動かした。

「あなた、話せないの?」
大きな目を真ん丸にして、彼女は僕の顔を見つめたまま止まった。

僕は頷き、メモ帳に続けて書いた。
【耳が聞こえないんだ。でも、口の動きで、言っていることはなんとなく分かる】

「…へぇ、そうなんだ」
彼女はごく素朴なリアクションで、それが僕にとっては新鮮だった。

「この辺の人じゃないよね?あそこの別荘地に来てる人?」
彼女の言葉を読み取り、僕は頷いた。そして、彼女を指差して首をかしげた。

「あ、わたし?ここのすぐ近くが家なの。みょうじなまえっていうの。あなたは?名前、何て言うの?」
あ、ごめんなさい、いっぱいしゃべっちゃったけど、分かる?

彼女はひどく慌てたけど、身振り手振りを交えて話すから理解しやすい。

【かれのみょうじかれのなまえ】

「かれのなまえ、くん?」

僕の名前を呟いた彼女の唇を見て、何だかひどく照れ臭くなった。
彼女が紡ぐ僕の名前は、特別な気がした。




・*゚
『いつものとこ、行ってくるよ』
夕方、森に行くことを母に伝えた。

「最近、ずいぶん熱心に森に行くのね。何かあるの?」
不思議そうに母が尋ねてきたけれど、

『内緒。』
僕は微笑んで、人差し指を口に当ててみせた。


彼女と出会ってから、毎日森で会うのが暗黙の了解となっていた。
彼女、なまえは、僕と同じ年だった。

【なまえ知ってた?この森、僕の伯父の私有地なんだよ】

「…え、うそ!勝手に花とか摘んじゃってた!」
ごめん!となまえは手を合わせて頭を下げた。
僕は笑って、頭を横に振った。

【伯父が言ってたよ。誰かがここの植物の世話をしてくれてるみたいだ、って。なんか嬉しそうだった。】
「え、そうなの…?いいの?」
【いいんじゃない、伯父は小人がやってくれてると思ってるから。】
「こび…小人!?伯父さんそんなメルヘンな人なの!?………て、ちょ、笑わないでよ、なにその『本気にしてやんの』みたいな笑い方!かれのなまえくん!?」
僕がこらえきれず笑うと、なまえは顔を真っ赤にして怒った。
そんな彼女がかわいくて、僕はまた笑った。




――「ねぇ、『嬉しい』って、手話でどうやるの?」
ある時、彼女が尋ねてきた。
僕は両手のひらを身体の前に向け、左右交互に、上下に動かした。

「『嬉しい』?」
彼女は覚えたての手話で『嬉しい』と表した。


【何が『嬉しい』の?】
僕の問いに、彼女は「内緒。」と言って人差し指を口に当てるだけだった。(いつだったか、僕が母にやったものと同じだった)

「ねぇ、かれのなまえは、聞こえないことがいや?」
ゆっくりと、彼女は言った。

【いやではないよ。こうやって、コミュニケーション手段はたくさんあるし。】

『ただ、筆談はちょっと疲れるかな』
ペンをしまい、わざと手話にすると、案の定彼女は頭上に「?」を浮かべた。
「何?何て言ったの?」
『内緒。』
僕がそう伝えると、彼女は一瞬だけ膨れっ面をして、それから僕をじっと見つめた。

「…かれのなまえは、もう絶対、聞こえないし、話せないの?」

「………」

僕は再びペンを出して、書いた。
【分からない。でも一時的なものだって言われたから、治るのかもしれない。】

「一時的、ってことは、前は聞こえてたの?」

【5年前までは、普通に聞こえてたし、普通にしゃべってたよ。】

「なんで、聞こえなくなったの?」

「かれのなまえ
お母さんの声
聞こえてないの?」


おかあさん、
なぁに
きこえないよ

「ごめんね
ごめんね
わたしのせいで、」


ねぇ
おかあさん
ぼくは、

「どうして
こんな子どもを

愛さないと
いけないんだ」


「……かれのなまえくん、?」

眩暈。頭痛。…虚無感。

【暗くなってきたね、戻ろうか。】
僕はにこ、と笑んで、メモ帳をしまって立ち上がった

はずだった。

なまえは、僕の腕を掴んで制止した。

「…何か、隠してる」

「……?」

口の動きが余りに小さくて、読み取れなかった。メモ帳を出すのが面倒で、僕は人差し指を左右に振って『何?』と尋ねた。
彼女の顔を覗き込むと、なぜか泣きそうな表情だった。

訳も分からず固まっていると、なまえは顔を上げ、手をゆっくり動かした。

『わたしは』
『あなたに』
『出会って』

『嬉しい』

「……っ!」
彼女は拙い手話で、そう言った。

『あなたの』
『声が』
『聞きたい』

『わたしの』
『声を』
『聞いてほしい』

「……っ、」
「…手話、これしか、覚えられなかったけど、」

ああ、そうか、

僕は、

「かれのなまえくんの耳が聞こえなくなったのは、
あなた自身を守るための、防衛手段だったんでしょう」

「………、」


そうだよ、
僕は、
ぼくは、ただ
認めたくなかった
だけど
認めて欲しかった
だけ、だった。



僕は、父に疎まれる存在だった。
理由は簡単で、仕事で家をあけることが多かった父を『父親』だと認識できず、幼い僕が懐かなかったから。
父は、僕の名前を呼ばなくなった。僕の存在を、ないものとしていた。

『どうして、こんな子どもを愛さないといけないんだ』
何の自責の念も感じさせない声色で、父は飄々と言った。

それを聞いた翌朝から、僕の耳は機能しなくなった。
懐かなかった僕がいけないんだ、だから当然の報いだと思った。
父は、仕事を理由に家に戻らなくなった。

母は、父との間にできた僕に負い目を感じながら、まるで腫れ物に触れるように接した。


……僕は、ただ
存在理由が欲しかった。
純粋に、僕がここにいることを誰かに認識して欲しかった。
報いだと思いながらも、父に拒絶されたことを認めたくなくて、認めたら僕が壊れてしまうと思って、
だから壊れてしまう前に、僕は耳を代償に自分を守ったんだと思った。


「…は、…たん、だ…」
「…っ!」
「…僕、は…怖かっ、たんだ…っ
だけど、一緒に、いたかったんだ…っ」

ほろほろと、目から涙が零れて、ああなんて格好悪いんだろうと思ったけど、そんなことより、僕の声が、君にちゃんと届いているかのほうが心配だった。

「…聞こえたよ、ちゃんと」
久しぶりに出した声は、きっとかすれてて不鮮明で、とてもおかしな声だろうなと思った。
それでも、君に届いたことが、何より嬉しかった。

「……なまえ、」
「…なぁに?」
名前を呼ぶと、なまえは首をかしげて尋ねた。

「もう少しだけ、ここにいて、」


柔らかく微笑んで頷く彼女を、愛おしく思った。



森にほどけた声ふたつ





“ずっと、かれのなまえくんの隣にいてもいいよ”
伏せた顔から、小さな声でそう聞こえてきたのは、多分、気のせいなんかじゃない。


(じゃあ、ずっと、僕の隣にいてもらおう、かな)

(え、ちょ、聞こえて、…っ!?)



end.
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