シーソー | ナノ
――勝手に離れていっちゃ、やだよ
「……っ、」
どくん、と、身体中がざわついた。
今まで漂ったことのない空気が、僕達を取り巻いた。
今までずっと、気付かないふりをして、遠ざけてきた空気だった。
「…なまえ、」
掠れるように絞り出した声で彼女の名前を呼べば、自分の心臓が再びどくんと跳ねる。まるで禁断の呪文を唱えるようだ。じわりと見えない汗が背中に滲む。ゆらりとあてのない手が、彼女に伸びた。触れる度胸なんてないくせに、まるで誘惑されるみたいに伸びた、自分の手。
僕の手が辿り着く前に、なまえの背中がびくんと微かに揺らいだ。
「…ちが、ごめ、何言ってんだろ、わたし……っ」
伏せたままの、くぐもった声が、戸惑いながら言葉を漏らす。
目を逸らせなくて、逸らしたくなくて、伏せたままの彼女の顔をゆっくりと覗き込んだ。
「っ…ばか、見ないでよ」
そう言って慌てて隠そうとした彼女の手を、僕は反射的に捕まえた。
「…馬鹿はそっちだ、何で隠すんだよ」
逃げるな、逃げるな、
「……こっち見て、なまえ」
「…っ」
どくん、どくん、
心臓が、耳元でうるさく騒ぐ。
…なまえ、なまえ、
「おー!そこにいたのかウォーカー!」
…突然後方から、野太い声が僕の名前を叫んだ。
同時に、がくんと隙の生まれた僕から、瞬時に身を引いたなまえ。何その俊敏さ、地味に切ない。
「……何の用ですか、先生」
「いやぁお前卒業制作の実行委員長だろ?自由登校始まる前に頼みたい仕事あったんだわー!ちょっと今職員室来てくれるか?あと放課後に臨時委員会やりたいんだがなぁ!」
がはがはと無駄に大きな声と対照的に、自分の気持ちがみるみるしぼんでいくのを感じた。
…これ程までに自分の有能さとタイミングの悪さを悔やんだことはない。
「…さ、先行ってるね、」
まるで逃げるようにその場から動こうとするなまえの手を、僕は咄嗟に掴んだ。
「放課後、教室で待ってて」
一緒に帰ろう。
そうこっそり耳元に伝えると、去り際に、真っ赤になって口元を隠す彼女の顔が見えた。
ああくそ、さっき中断されなければ、もっとその顔が見れたはずなのに。
(その顔は反則だ…。)
♪シーソー 20
「あ、おかえりなまえ、遅かったわね」
「びっ…………」
「び?」
「……っくり、したっ…!」
ぶしゅうぅ、と顔から湯気が上がっている気がした。足がもつれて思わずリナリーのもとになだれ込んでしまった。
びっくり、した、本当に。
なんてことを口走ってしまったんだろう、わたし。自分の気持ちが、感情が、止められなかった。門番の許可を得ずに、そのまま門を飛び出てしまった、みたいな感じ。
知らなかった、こんな自分が、いたなんて。
『…こっち見て、なまえ』
先程の彼の台詞が頭をよぎり、リフレインする。途端、ぼんっと頭の中の何かが爆発した。
「ちょっと、さっきから故障した家電みたいになってるけど大丈夫?」
「いっそ家電になりたい…!」
「なまえさんん!?どうしたんさ何があったんさ!?」
…知らない、あんなアレン、知らないよ。
「…もおぉぉぉーー…!」
知らないことばっかりで、頭の中が大混乱だ。唸りをあげてしゃがみこむと、慌てたラビに「今度は牛か何かさ!?」と突っ込まれた。
***
昼食を食べ損ねた僕は、いつもなら不機嫌MAXでずっと食べ物のことを考えている。だけど今日は、何故だか食べ物以外の何かで頭がいっぱいだった。僕の脳味噌は先生の卒業制作の話なんかそっちのけで、午後の授業内容も華麗にスルーしていた。
頭の中を占めるのは、彼女の存在ばかりだった。
今、どんな気持ちで授業を受けているだろうか。どんな表情で過ごしているだろうか。会ったらまず、何て言おうか。
そんなことばかり考えて、思わず頬が緩む。隣のラビに見つかってニヤつかれた。
「せんせー!アレンがやらしいこと想像してニヤニヤしてて気持ち悪いでーす!」
「ちょっ、ラビ!」
「おお、むしろウォーカーも健全な男子なんだと思って先生は安心したぞ」
「もうやめてください…!」
…間違ってない、確かに僕は、ある意味すごく健全な男子高校生だ。
***
「…では、今日の臨時委員会はこれで終了でーす」
面倒な委員会の仕事も終わり、首を傾ければゴキ、と痛々しい音が鳴る。膨大な量の資料を適当に揃えてクリアファイルに突っ込む。鞄にしまい、ファスナーを閉じる時間さえも惜しいと感じた。身体が先に動いて、パイプ椅子ががたんと音を立てて揺れた。
「おーいウォーカー!ちょっと聞きたいことあんだけどー!」
「ごめん、また今度にして!足りないところあったら次の登校日に修正するからさ!」
聞こえた声に反射的に答えながら、僕は慌てて教室を出た。
「…珍しいな、あいつが俺らにタメ口になんの」
「つーか、あんな嬉しそうなウォーカー初めて見たわ」
「えっ、あれ嬉しそうなの?」
「だってほら、何か、キラキラしてんじゃん」
…急げ、急げ。
階段を2段飛ばしで駆け上がる。はっ、はっ、と息が上がる自分の胸を押さえながら、見えてきた教室に足を急いだ。
「…っ、なまえ…?」
暗がりの教室にたった一人、突っ伏して動かない小さな身体を見つけた。
「…寝てるの…?」
呟くように声をかけてみる。案の定、なまえはすぅすぅと小さな寝息を立てていた。…何と言うか、この幼馴染みは何かと隙が多いというか、無防備すぎるというか。僕は堪らず深いため息をついた。
「…こっちの身にもなれ、バカなまえ…」
そう毒吐いて、なまえの前髪に触れる。柔らかくてしなやかな髪が、まるで僕の指に吸いつくように絡まる。
…早く、早く起きて欲しい。僕がヘンな気を起こす前に。
「…あと10秒で起きないと、キスするよ」
なんて、聞こえているはずもないのに、卑怯な条件を出した。
「10、9、8、7…」
こんなに、柔らかな髪だっただろうか。こんなに、華奢な肩幅だっただろうか。こんなに、睫毛長かったっけか。
なまえはこんなに、『女の子』だったっけか。
ああそうか、僕達はもう18歳なんだ。あんなに小さかった僕も、彼女も、昔とは違う。何がどう違うかなんて、あげたらきりがないし、上手くあげられる自信もない。
「3、2…」
ただ、今の僕達は、それに抗うことなんてできない。それだけのこと。
「…いーち…」
触れた頬が、唇が、ふやけそうなくらい柔らかく感じたって、
そっと近づいた彼女の空気が、溶けそうなくらい甘く感じたって、
視界が、距離が、時間が、
『ゼロ』になったって。
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