(…雨の、匂いがする。)

新緑の春を終え、季節は梅雨を迎えた。連日続くどんよりとした雨模様に、心なしか学校内の空気も湿気を含んでずん、と重くなった気がする。
籠ったような、土のような、重たくて生温い匂い。
耳の遠くの方で、さあさあと響く音。また別の方からは、ぴちゃん、ぽちゃん、と可愛らしく雫が落ちる音。
「…これは夜まで止まないパターンかなぁ」
窓の向こうに視線を送りながら、僕はぽつりと言葉を漏らした。

雨は嫌いではない。さぁさぁ、と迷いなく、真っ直ぐと地面に直下してくる雨を、僕は羨ましいとさえ思う。あんな風に真っ直ぐ落ちてゆけるなら、きっと苦しい思いをしないで済む。自分の落ち行く先を分かって、その運命に抗いもせず、ただ真っ直ぐに、儚く、流れる。

ああ、でも、
落ちて流れる前の僕を、彼女が気付いてその手に受け止めてくれたらいいのに。

そう願ってしまう僕は、やっぱり欲張りで子どもだ。

(……またあの人は…あんな格好で…)

淀んだ空を見上げ、その手のひらを掲げて雫を受け止める彼女の姿を窓の外に捉えた僕は、自分がそうしようと思う前に、既に自分の足は進み始めていた。




   






「名前ちゃん、おはよー」
「びしょ濡れだよどうしたのー?!」
登校する生徒達でわいわいと賑わう昇降口から聞こえてきた彼女の名前を逃さずキャッチした僕は、その足を速めて急いで階段を駆け降りた。
「いや、校庭にゼッケンとか干しっぱなしでねー、まさか朝から降るとは思わなくてさぁ」
苦笑しながらそう話す彼女の手元には、確かに体育で使うゼッケンが大量に抱えられていた。
「結局ゼッケンも濡れちゃったから、今日の体育はゼッケンな、わぷっ、」
彼女のコメントを遮るようにして、僕は後ろから持っていたタオルを彼女の頭に乱暴に被せた。
「…ゼッケンより自分の身を守らなくてどうするんですか」
「(あ、王子だ)アレンくんおはよー」
「(王子だ…)」
「(やっぱりこの人名前ちゃんの王子だ…)」
女子生徒3人の生温かい視線を横に感じながら、僕は構わず彼女の頭をがしがしと拭いた。
「え、わ、ちょっ…ウ、ウォーカーくん!?」
見下ろされる低い身長も相まって僕の力に抗いきれない名前先生をスル―しながら、僕はタオルで拭く手を止めない。
「こんな格好でいたら風邪引きますよ、名前先生はもっと自覚してください」
「わ、わかった、分かったから、自分で拭くからー…っ」
懸命に僕の手を捕らえようとする先生の手。時折ちょん、と僕の手に触れるたびに、その冷たさが僕の心臓をひゅう、と掴む。
「…分かりました、じゃあ自分の手で拭いてください」
そう言って、今度は僕が先生の両手をぎゅ、と上から掴んだ。そしてそのままがしがしと、今度は後頭部や耳を拭く。女子生徒がひぎゃっ!と小さな悲鳴をあげる。
「ちょ、あの、そ、そういうことじゃ、なくってっ」
うろたえる先生を尻目に、僕は尚も拭く手を止めない。

  こつん、

騒ぐ先生を黙らせるため、僕は先生の額に自分の額を当てる。先生の両手を離したくないから、そうするしかなかったのだ。

「…もー、静かにしてください、あんまりにゃあにゃあ言うとキスしますよ」

「き…っ!?」
ぴし、と音を立てて名前先生が固まる。
「皆さん!!!王子が!!!王子が今日も絶好調ですよー!!!」
「もういっそのことそのままキスしちゃってぇー!!!」
「誰か一眼レフ持ってきてぇー!!!」
きゃああぁぁあ!!!と耳をつんざく黄色い悲鳴が辺りに響いたところで、名前先生にいよいよ怒られた。怒ったところで顔真っ赤だからちっとも説得力がないのだけど。

「…あ、名前先生」
騒ぎがようやく終息を迎えた頃、未だに赤い顔で立ち去ろうとする先生を呼び止めた。
「ん?どうしたの?」
あんなことがあった後でも、たたた、とわざわざ僕の前まで駆け寄ってくる先生を、堪らず抱きしめたい衝動に駆られる。重症だ。慌てて平静を装いながら、僕は自分の着ていたブレザーを、そっと先生の肩にかけた。案の定、何のことやらさっぱりと首を傾げる先生に苦笑いしながら、僕は少しだけ屈んで耳打ちした。
「先生、ちゃんと着替え持ってますか?」
透けてます、服。

「………っ!!!は、はやくいってよ、それ…っ」

「ごめんなさい、もう少し堪能していたくて、黒」
「色とか言わなくていいですからね!!?」
「あと、僕のブレザーを着た先生をどうしても一人占めしたかったからです」
「…へ、変態だウォーカーくん…!」
「もう遠慮しないって決めたんで」
「…詐欺だ、何よその爽やかな笑顔、とんでもない詐欺だよ…」
真っ赤な顔でわなわなと抗議する先生の両手には、僕のブレザーがしっかり握られていた。
だから言ったじゃないですか、先生はもっと自覚してください、って。



***

体育祭でのあの一件以来、僕は学校で『王子』という身分不相応な称号を得た。それに尾びれがつくように、僕が名前先生専属の王子だという噂が広まった。
正直なところそこは、

「本望ですね」

「いや、そんなドヤ顔で言われても」
隣で生徒会書類をホチキス留めするラビは、その規則的に動く手を止めずにさらっと僕に突っ込みを入れた。
生徒会役員のラビとは幼馴染みのような関係で、こうして時々彼の仕事を手伝ったりしている。
「にしても、アレンがそこまで入れ込むなんて意外だったさ。しかも、相手は教師」
「別に教師だから好きになったわけじゃないです、好きになった人がたまたま教師だっただけで」
「わぉ、ゲロ甘過ぎて吐きそーさ」
「どういう意味ですか…」
わざとらしく口元を押さえるラビに苦言を漏らしながら、僕は少し乱暴にホチキスを留める。あ、芯なくなった。
カシャカシャ、と空っぽな音を鳴らすホチキスを眺めながら、この形容し難い感情に思いを馳せた。
「…例えば、朝起きてまず何を考えますか?顔洗おうとか、今日テスト嫌だなとか。そういうのと同じように、今日は名前先生と話せるかなって、自然と毎朝考えるようになったんです」
ホチキスの芯を補充しながら、僕はラビに淡々と言葉を漏らす。自分でも随分と痛い発言をしていることは自覚しているが、それでもラビは、その動かす手を止めず、時々うん、と小さく相槌を打つ。腐れ縁とでも言うべき彼に、僕は何だかんだいつも救われている気がする。なんて、本人には絶対に言わないけれど。

「…アレンのそーいうところ、オレは結構好きよ?」
にや、と癖のある含み笑いを浮かべながら、ラビは綴じた資料をまとめてトントンと揃えた。
「…それはどーも。」
「ま、人を想うだけならタダだから。アレンの思うように突っ走ってみたらいいんでない」
「そうするつもりです」
「法に触れそうな時はさすがにストップかけるわ」
「はは…」

正直なところ、僕はあまり人を好きになったことがない。惚れた腫れたの類の話に巻き込まれたことはあるけれど、僕自身が誰かに恋をした試しがない。だから今の自分に一番驚いているのは僕自身で、前例がないからこそ、自分がどこまで突っ走ってしまうのか未知数だ。
得体の知れない感情に振り回されて、思ってもみない行動に出る最近の自分。僕は案外、恋をすると暴走するタイプなのかも知れない。
(正直、ストッパーがいるのはだいぶありがたいかもしれない…)
自分にこっそりと苦笑しながら、僕は朝駆け降りた昇降口への階段を、今度は慎重に降りた。

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