「先生」と、透明で柔らかな声で呼ばれることが、ひどくくすぐったかった。

まだ記憶に新しい、暖かな新緑。しとしとと降る雨の音。底冷えする教室。雪に吸収された無音の空間。制服の袖。熱の籠った体温。涙。
写真になんて残せない、緻密で繊細な時間。

わたしはここで、この切り取られた異空間で、
一生分の幸せを使い果たしてもいいとさえ、思えた。




   






「せんせー、さよーならぁ」
「はーい、気をつけてね」
「名前ちゃんばいばーい!」
「名前ちゃんまた明日ねー!」
「こら、せめて『先生』つけなさい」
欠片ほどの威厳を見せつけて言い放つも、生徒達は笑って受け流していく。新任教師の扱われ方なんて所詮こんなものです。いいんです、わたしは生徒皆が楽しく学校生活を送れていればそれでいいんだもん。
「相変わらずなめられてんなぁ、名前ちゃん」
「…ティキ先生に言われるのだけは許せないです」
「おおぅ、ひでぇ扱い。こんなに可愛がってんのになぁ」
「ティキ先生、肩に手を回す行為はセクハラに値すると思いませんか?」
どさくさに紛れて触れてきたティキ先生の左手の甲を、わたしは渾身の力でつねった。ごめん冗談ですごめんて!と形ばかりの謝罪を済ませ悶えながら手を擦るティキ先生の姿を見て、女子生徒がくすくすと笑う。
「あはは、ティキ先生また名前ちゃんにふられちゃったのー?」
「だめだよーもっと紳士的にアプローチしなきゃ。折角イケメンなんだから」
「そう、俺イケメンなのに名前ちゃんちっとも振り向いてくれねぇんだけど」
「そのチャラさがだめなんだよー、ね?名前ちゃん」
「そうだね、先生はもっと紳士的な人が好き…じゃなくてほら、皆これから部活でしょ?遅れちゃうよ」
「わ、ほんとだ時間やばい!じゃあね名前ちゃん!」
バタバタと駆けていく生徒達を見送りながら、尚もすがりついてくる隣の英語教師を、わたしは持っていたファイルでぐいぐいと精一杯押しやった。
「職員会議遅れちゃいますよ、ティキ先生」
「いっそこのまま2人でばっくれる?」
「ばっくれません」



この高校の教師になって1カ月経った5月。まだまだ仕事は慣れないけれど、親切な先生や可愛い生徒達に囲まれて楽しく過ごしている。フレンドリーで快活な生徒達のことは可愛くて大好きなのだけれど、この童顔と152cmの身長がどうにも『教師らしさ』を欠くようで、皆からはなめ…親しみを持って接せられる。断じてなめられているわけじゃない。親しみやすいという、ある意味チャームポイントだ。
そんなわたしの目下の悩みは、ティキ先生のセクハラとか、クラス担任の峯先生がご高齢のため腰痛でしょっちゅうお休みされるのでその分のツケが副担任のわたしに回ってくることだとか、色々あるけれど、

「失礼します、先生、日誌持ってきました」

…最近少し気になるのは、クラスの彼、『アレン・ウォーカー』くんだ。


「あ、すみません、まだ会議中でした?」
「ううん、終わったとこだよ、遅くまでありがとうねウォーカーくん」
そう声をかけて日誌を受け取れば、彼はふわ、と柔らかく笑った。すごい、イケメンの微笑みだ。きらきらふわふわしている。どこぞの色黒英語教師とは大違いだ。100%イギリス人の彼だが、ご両親の仕事の関係で日本生まれの日本育ちらしく、普通に日本語を話すので、見た目とのギャップがなかなか面白い。
「峯先生、まだ腰痛治らないんですか?」
「そうだねぇ、今週いっぱいはしんどいかもっておっしゃってたなぁ」
「先生、新任なのに大変ですね…」
ああもうこの子は。そんな大人の事情まで心配して…。
「…ウォーカーくんは、良い子だね…」
思わず、しみじみと本音を漏らせば、ウォーカーくんは一瞬ぽかんとしたあと、またふんわりと笑って見せた。
「…そんな、良い子なんかじゃないですよ、買い被りすぎです」
そう言って謙虚に振る舞う彼だからこそ、わたしはどうにも彼が気になる。温和な性格だし、礼儀正しいし、友達にも囲まれているし、成績も申し分ない。完璧すぎる彼が、一体何を思い、何を考えているのか、わたしには読み取れなかった。

彼はきちんと『高校生らしい』姿を見せられる相手がいるのだろうか。

後になって思えば、わたしは稚拙ながらも教師として、彼のそんな姿を引き出してあげられたら、と思っていたのかもしれない。

(そういえば、B組のラビくん…だったかな?確かよく喋ってるから彼とは仲良しなのかな…?)
「あ、先生、このマスコット…」
あらぬ方向に思考を巡らせていると、ウォーカーくんが声を少しだけ弾ませて、わたしのデスクにあった白いうさぎのマスコットキーホルダーに手を伸ばしていた。珍しい、ウォーカーくんが目を輝かせている。
「これ可愛いよねー、ウォーカーくんも知ってるの?」
「はい、僕このラインスタンプ買いました」
「それは…なんか、意外だね…」
何だかウォーカーくんの雰囲気とその手に大事そうに握られたうさぎさんがミスマッチな気がするけど、あどけない少年みたいな表情をするから、思わずわたしも笑みがこぼれた。
「そんなに好きなの?」
「はい、……何か、似てるなぁと思って」
「似てる?」

「……名前先生と」


……ん?

何かの聞き間違いかな。そう思って、わたしはそれ以上かける言葉が見つからなかった。
「名字先生ー、ちょっとよろしいですかー?」
「あ、はーい!」
遠くから学年主任の先生に呼ばれ、空気を察したウォーカーくんが「じゃあ、これで失礼しますね」と、うさぎさんをデスクにそっと戻した。
「あ、暗くなってきたから気をつけて帰ってね」
「はい、失礼します」
ガラガラ…、と職員室のドアが静かに閉まる音を背中に聞きながら、わたしは急いで学年主任の先生のもとへと駆けた。



「…また明日、先生」



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