随分とむかし、恐らく、この名前を継いだ時から。基山ヒロトの記憶の底にはいつも、知らない赤い色が沈んでいた。縁日の中で泳ぐ金魚の尾鰭のような、また、悍ましい程に咲き誇った桜を照らす篝火のような、そんな不思議な赤だ。前述の通り、ヒロトはその赤について全くの知識も持ち合わせていない。ただ漠然と、その色がもうこの世から失われてしまったものだという事実だけを知っている状態にある。それは酷く浮ついた、落ち着きのない気分だった。底から、赤は、ただ自分のことを見つめている。心の奥にありながら、遠い場所に在るもの。ヒロトには、自分がそれと世界とを繋ぐ掛橋であるような気がしていた。

 そして、現在。ヒロトは一人、城崎の温泉街に療養に来ていた。かつて一度死んだ彼は、少し前、また生死をさ迷った。ちょうど授業で習っていた文豪と同じように、山手線を走る電車に跳ね飛ばされたのだ。生きているのはまさに、奇跡としか言いようがない大怪我であった。どうやら踏切の中に、知らないうちに飛び込んでいたそうだが、後になって幾ら頭を捻ってみても、その時自分が何をしていたかは全く思い出せなかった。だから慌てて駆け付けた親友に泣きながら問われようと、幼なじみの少女に冷たく言葉をぶつけられようと、ヒロトはただ疑問符を浮かべながら首を傾げることしか出来なかった。ため息をつかれようが、こればっかりは仕方のないことである。
 致命傷ではないとのことで、じゃあ、と、ヒロトは物語の筋をなぞるようにこの場所へやって来た。心配だから付き添うと最後まで渋っていた姉を引き留めたのは、なんと、相変わらず冷たい視線しか寄越さない幼なじみだった。一人で頭を冷やさなくてはまたおかしな行動に走るかもしれないだろう、というのが正しさを貫く彼女の言葉。まったく、もっともな意見だと思った。
 ここ数日滞在している旅館のある地域は、ヒロトが暮らす東京に比べると非常に時間の流れが緩やかなところだった。流石に、妥協として姉が紹介してくれただけはある。近辺の雰囲気も散歩するのにぴったりで、その日も、ヒロトは物思いに耽りながら辺りを散策していた。白い彼の頬を、初冬の肌寒い風がゆるりと撫でていく。自らの赤は、今も地上に在り、それらの風に流され、気持ち良さそうに靡いている。と、ヒロトはぼんやり推測した。実際、風が身体に当たるのは気分が良かった。ただ、此処にいる。それだけで何もかも穏やかなのだと、どうしてか今はそう思える。
 ――静かだ。
 頭上にて伸びる葉の落ちた寂しい枝は、彼の髪の毛と同じように、風や乾いた陽を浴びてざわざわと唸っている。夕方を告げる鳥の囀りは耳に優しかった。自然に包まれ、驚くほど鎮まった気分に、ヒロト自身が一番驚いていた。生死の境目で見たものは、治療の合間にもうすっかり忘れてしまっている。ただ、今まで抱いてきた何かに違和感を抱いているのは事実だった。

「…なんだかなあ」

 頭の中に浮かぶのは、冷たさを伴ったあの赤い色だった。ゆらゆらと、幼い頃初めて感じた時から変わらぬまま、それは彼と彼を隔てた心の奥にあり続ける。まるで、一種の呪いだとでも言うように、ヒロトの目を逸らさせない無言の圧力がかけられているのだ。ヒロトはその色に対して苦しいだとか、消えてほしいだとか、そういう負の感情は抱かなかったけれど、ただ自ら引いた境界線を越えて来ようとすることについてだけ形容し難い居心地の悪さを覚えた。君と俺は、違う。同じ場所にはいない。いてはいけないのだ。――ヒロトは、心の中でそう念じ続けてみるけれど、しかしその赤が何処に行けば良いのかと考えると、双方が納得出来るような代替案は全く出てこなかった。だから今の今まで付き合ってきたし、その色を拒絶したりもしなかったのだけれど。
 踏まれた砂利の鳴る音と、浅いヒロトの呼吸だけが、しんとした辺りに響く。
 ――吉良、ヒロト。その名前を口にするたび、基山ヒロトはどうすれば良いのかよく分からなくなってしまう。自分は過去に一度、父親に受け入れられたい一心で「彼」に成ろうとしたことがある。しかし、どう足掻いても彼には成れなかったし、それによって沢山の大切なものを失った。それでもヒロトが救われたのは、一人ぼっちの自分に差し延べられた手が、光があったから。あの時、基山ヒロトは一度死んだ。生まれ変わると同時に、吉良ヒロトの記憶も彼の中に蔓延る赤と共に仕舞われたのだ。
 それから、電車に跳ねられて本物の生死の境をさ迷った時から、彼は再び吉良ヒロトのことを思い出すようになる。心の中に無意識に引かれた境界線の向こうに立つ彼は、どうしようもなく分かたれた遠い世界にいる筈だった。しかし彼はそこにいる。確かに、そこにいるのに、生きてはいない。吉良ヒロトは少年犯罪に巻き込まれ不幸な死を遂げ、そして、よく分からない理由で大怪我を負った基山ヒロトは此処にいて、何とか生きている。彼によく似た自分が、二度も死んだ上そのたびに生き返っているというのは、どうにも不思議なことのように思えた。また、何より不可解なのは吉良ヒロトをこんなにも近くに感じられることだ。生きていること、死んでいること、それらは両極ではないのだと、自分が辿る物語の作者が綴っていたのをぼんやりと思い出す。
 ――吉良ヒロト、君は一体どこにいるんだろう。

 時間というのは止まることなく進み続けるものである。取り留めもなく歩み続けたヒロトを待っていたのは、黄昏れの景色だった。橙というより、紺の配分の多い自然な暗がりが、山や、町や、砂利道を染めていく。恐ろしいが、その様子はとても美しかった。ヒロトの赤い髪も、常にその中にあった。景色と同化していた。闇に包まれたまま佇んでいると、空を飛ぶ烏や、時折地面を這っていく蜥蜴と、そして自分との間に明瞭な線など引かれていないような気分になってくる。それから、とめどなく回り続ける彼の思考は、やがて自身の奥底に眠るあの赤と対峙し始めた。夕闇の果ての、その向こう。揺らめく赤は自分と似た形をとり、微笑んだ。基山ヒロトの中にいる、吉良ヒロト。彼のいる場所と、自分が立つ現実の差など無いように思えて、ヒロトは突然、足元が無くなったような不安感に襲われた。だが、どこか妙に落ち着いた気分もやはり続いていて、妙だった。
 生と死の間に、線引きなんか無いんだよ――。離れた場所で、いや、ヒロトのすぐそばで、そんな囁きが聴こえてくる。少しして、君は電車に跳ね飛ばされたろう、と、その声は続けた。大きな鳥の影が彼の赤にまた一つ大きな闇を落としていった。

『君は電車に跳ね飛ばされたけれど、こうしてピンピンしている。まるで健康じゃないか。つまり君は、見えない何かに偶然生かされたんだ。それが幸せなことなのか、はっきりと断言は出来ないけどね』
『死を身近に感じてしまったから、しかも、「俺」なんていう酷い死を背負っているから、君が怖くなってしまうのも当然かもしれない』
『でも、死は恐ろしくなんかないよ。だって俺はここにいる。君のすぐそばだ、怖くない。俺と君が離れていると決め付けたのは紛れも無い君自身なんだから』
『ヒロト。確かなことは、君がまだ生きているという事実だけなんだよ。君がどんな選択をするか、それだけが真実として君の道にある』


『ねぇ、君はどうしたい?』


 ――俺は。
 夕闇の中、ふと、頭の中がが鮮明になる。ゆらゆらと、まどろむように揺れる赤を心にしっかりと感じながら、ヒロトは目を閉じていた。冷えた頬を伝うのは生温い涙だった。自分が何を悲しんでいるのか、また、喜んでいるのかはよく分からなかった。ただただ涙が流れるばかりだった。胸に手を当てる。鼓動を感じる。そうして、まだ生きていたいと、素直にそれだけを思った。
 ――俺はここにいたい。
 もう一度、改めてそう思う。自分は吉良ヒロトと世界を繋ぐ掛橋などではなかった。寧ろ、今までは吉良ヒロトが基山ヒロトと世界を繋ぐ役目を果たしていたのだろう。彼の持っていた赤色は、吉良ヒロトの家族にもう居ない彼の優しい幻を見せてくれたし、そのお陰で基山ヒロトの最初の世界は拓かれた。けれど今は、その影を引きずらなくても生きている。自分の肉体はちゃんと動き、地面を踏み締め、呼吸を繰り返し、そして涙を流せている。人を隔てる一つの終わりは、何の奇跡か、まだヒロトには訪れない。
 生死の境界線を、知らず知らずのうちに探していたのかもしれないと、ヒロトは後になって思った。自分の中に存在し続ける赤と、自分との間の距離は、元々ヒロト自身が作り上げたもので。けれど、今の彼にもうそれは要らなかった。両極ではないという過去の言葉が、頭の中で反芻している。そう、どんな生き物であっても、それらは両極ではない。生と死はいつだって隣り合わせにあるもので、だから、分かれる必要など無いのだと。自分は此処に生きていて、また吉良ヒロトも、確かに此処にいたという、その事実だけが全てだった。

『……。それが君の答えか』

 そんな返事が聞こえたあと、心の中であの赤が激しく揺らぎ、やがてそれは溶けて見えなくなった。最後に少し、己の中の吉良ヒロトが笑った気がしていた。もうすっかり日は沈んでいたが、ヒロトは、その闇の中にずっと探していたものを見付けることが出来た。帰るべき場所も、その手段も、きちんと頭の中で整理が着いている。星の群れはヒロトの目の前で煌めき、彼のことを薄い明かりで照らした。流れ出していた涙は、既に止まっていた。



「さよなら…」



 ぽつりと呟かれた言葉が誰に宛てられたものであったのか、もう、大人になったヒロトは忘れてしまっている。

 あの時負った怪我はすっかり完治し、後遺症も残ることはなかった。吉良財閥の若手社長として日々忙しなく働いているヒロトは、あの日底に眠っていた赤を纏い、同時に「吉良」の苗字を受け継いでいた。昔のような強い執着はそこには無く、ただ、極めて穏やかな気持ちで彼はその名前を受け入れた。名前という固体を識別する為の概念に固執しなくても、自分が生きていることを知ることが出来ているのだから、それで良かったのだ。
 そして、これは余談かもしれないが、あのとき怪我を負ったヒロトに冷たい言葉を掛けていた幼なじみの目がうっすらと潤んでいたのを、彼は知っている。少女だった彼女は今、凛々しさと正しさを更に増して、とても美しい女性になった。嫁の貰い手が無ければ自分がさらってやると言ったら強く叩かれたけれど、ヒロトに対する彼女の物腰は昔よりも確実に柔らかくなっている。一緒になる日も遠くないというのは、きっとヒロトの自惚れだけが引き起こしているものでは無いだろう。たぶん、そんな彼女の為にも、自分はまだ生きているのだとヒロトは思っている。

 そして彼女と同じように、あの揺らめく赤も、見えなくなってしまった現在も昔と変わらぬままヒロトのそばに在る。
 ――彼はたまに思い出す。吉良ヒロトの存在を初めて知ったときのこと。自分が基山ヒロトだったこと。二度も死にかけ、偶然にも生き延びたこと。自分を想って泣きそうになっていた少女のこと。優しい姉と、親友のこと。死が自分の隣に座り、その正面に生が聳えていたこと。また、それに対峙してもなお、確かに、自分が心から生きたいと願ったこと。

 自分を誘い、また生かした吉良ヒロトの声は、遮断機の電子音と共に、今でもヒロトの中で静かに鳴り響いている。






∴I will exceed a transparent boundary line.

20130227