貴方は何も知らない。晴れ渡る青空、澄んだ空気、光を受けて煌めく水面、風にそよぐ梢、一面に広がる花畑、踏みしめる大地。自然と一言で括ってしまうも良いでしょう。どうであるにせよ、私の世界には何もなかった。私の国には、部屋には、何もなかったのだから。誕生日にパパから貰った花は永遠を持っていた。クリアなカプセルの中で酸素も水も光も求めず咲いていた。確かに生きていたあの花は、けれど自然のサイクルの中から弾き出された存在だった。人間という輪から、進化という都合の良い言葉で弾き出された私たちのように。
 薄暗くとも整頓された暮らしを貴方たちは近未来的だとほめそやすのかしら。だとしたらそれは愚かしいこと。どれだけ科学技術が進歩しても、それに併せて人間の心が変わらなければ無意味なの。自分たちが作り出した世界に適応したつもりで、実際は埋もれているだけ。進化と適応は果たして同義だったのかしら。私はもう、そんなこと考えたくもないのだけれど。


「フランは星の王子さまだね」

 天馬が言う。フランは首を傾げる。女の子のフランに、王子さまという言葉を贈るのは間違っている。けれどこれは、実際の王子さまではなく物語の登場人物を指しているということを天馬は説明しなかった。自分たちの時代に普及している物語が、彼女の時代でも当たり前のように存在しているとは限らない。けれどそれで構わない。物語の話をしたいのではない。話したいのは彼女のこと、それから彼女と自分のことだったから。

「そして同時に花なんだ」

 フランの星は、きっと研究所の一室だった。光の刺さない暗闇がいつしかフランの自我を内側に押しやった。笑うことも泣くことも、サンやアスタの自分の内側にいる人間にだけしか見せなかった。自分を苦しめる世界と、自分の愛する世界を区切って、けれど彼女は耐えていた。酷い実験に苦しむフランは、それでも心を壊せなかったから。
 フランは花だった。どこかから飛んできた種が芽を出し、蕾をつけやがて咲いた。けれどその星でたったひとりの花は自分の名前を知らなかった。持っていたのは花弁と、四つの棘。周囲には何もない。
 フランは星の王子さまだった。どこかから飛んできた種が芽を出し、蕾をつけやがて咲いた。だから、その星でたったひとりの王子さまは花を必死に守ろうとした。四つの棘を持ち、外敵に怯える花に何度も貴女を襲うものは何もないのだと説明し、吹き抜ける風が怖いと言われれば衝立を置いてやった。
 ある日フランの星は壊れてしまった。何もないことは同じなのに、壊れてしまった。フランを追い出して栄えていたはずの世界が消えたから、その恩恵をなにひとつ受けていないフランもまた身一つで放り出されてしまった。だからフランはその星を飛び出した。たった二人の友だちと、同時に家族のようなサンとアスタは何も言わずに彼女の為に付き従ってくれた。
 色々な星に降りたって、けれどどの世界にもフランを苦しめるものが溢れていた。どうして戦ってしまうのか、どうして人間は戦いを捨てられないのか。矜持、見栄、偏見、傲慢、支配、嫌悪。渦巻く感情が人間に戦いを与えるのならば、全て奪ってしまうことにした。そうすれば優しい世界が広がるはずだから。あの日、ケース越しに触れることもできなかった花を思い出す。フランは星を旅立つ前、守っていた花にもう世話はできないからとガラスケースで覆ってしまおうとした。けれど花はそんなものはいらないと言った。私は花だから、夜風に吹かれても平気だし、蝶々と仲良くなるには棘で攻撃などしてはいられないのだからと。何よりその花はフラン自身だったから、旅立つ自分をケースに仕舞っておくことなどできなかった。だってフランは生きていたのだから。

「――貴方は、」
「ん?」
「私が星の王子さまで、花なら、天馬は……何?」

 震える声で、フランは問う。天馬との距離は何故か遠い。いけない、もっと大きな声で伝えなくては。そうフランが息を吸い込むと、天馬はなんだろうねと首を傾げた。驚いた、聞こえないものと思っても仕方がない距離だったから。けれどその天馬の声だって、フランの耳元すぐ近くで聞こえてくる。フランは力を使っていない。ましてや天馬はフランと同じ力を持っていないのだからテレパシーなんてできないはずなのに。

「少し近づいても良い?」

 天馬が言うから、フランは頷いた。すると彼は大股で一歩彼女との距離を詰めた。そして嬉しそうに微笑んで、フランにも一歩だけこちらに距離を詰めるよう促したので大人しく言う通りにした。ただ、フランの一歩は天馬のものよりも短かった。それでも天馬は相変わらず微笑んでいる。

「これは俺とフランが仲良くなったから距離を詰めたんだよ」
「…仲良く、」
「そう、言葉って誤解の元らしいけど、やっぱり仲良くなるには言葉って必要だと思うんだ。勿論、時間もだけど」

 今日の天馬はどこかおかしい。こんな小難しいことを言う人だっただろうか。もっと明快な、そうでなかったとしてもそれは天馬すら理解が追い付いていないような内容で、だけどこんな言葉を選ぶような人だったかとフランは心がざわめいた。
 二人の足もとには名前の知らない花が一面に咲き誇っている。花畑というものは、フランの星では有り得なかった。天馬の星では、自然の中にあることもあるし人工的に作ることもできるらしい。けれど人間の生活の場に組み込むのはやはり難しいそうだ。花を顧みる人間は少ないから。

「俺はね、できれば狐が良かったんだけど…僕なのかなあ」
「――?」
「フランは、いつかフランの星に帰らなきゃいけない。俺はそれを見送る。だけどその前に君と仲良くなりたい。その為に、こうして時間を費やしてる」
「天馬、」
「ねえフラン、この星には十万の人間も十万の花も咲いているでしょ」
「――そんな、わからないわ。数えたこと、ないもの」
「うん、いいんだ。数えなくていい。だけど知っていて。心を傾けたもの、時間を費やしたもの、それだけがその人にとって特別な一人で、花なんだって」
「……仲良くなったものが、特別?」
「たぶん、俺はそう思うよ。フランの星は俺には見えないけど、この星はフランには見えなくなるけど、忘れないで欲しいんだ」

 いつの間にか天馬との距離は人一人分にまで近付いていた。真っ直ぐ彼を見つめていた筈なのに、フランは不思議で仕方がない。けれど天馬が発する言葉全てに心を籠めていることがわかるから、フランは余計な言葉を挟まない。こんな温かい言葉が耳朶を揺らすなんて信じられないくらいに。柔らかな風に包まれているようで、心地よさに瞼を閉じてしまいそうになるけれど堪える。
 そして天馬がこれから忘れないでと願うものを、私は絶対忘れないようにしようと次の言葉を待った。どうしてか涙が零れそうだ。

「フランは花、君は薔薇。世界には十万の花が咲いて、だけど君は俺の特別な薔薇。見失わない、夜空を見上げて俺はきっと君の星を想うよ」
「――私、天馬の特別なの?」
「そう、」
「私…私も、貴方を見失わないわ」
「ありがとう」

 目には見えない大切なものを、心に思い描いて夜空にかざす。この花畑を、そこで微笑む自分たちを。
 別れを告げてしまうがいいのだろう。きっと、フランは直ぐにでも自分の星に帰ってしまうだろうから。そしてそこには嘗て何もなかった世界とは違う、新しく優しい風景が広がっているはずだ。それはフランが手に入れる日常になるだろう。そこに天馬はいないけれど、それでも彼女にとって天馬はたった一人の特別、たった一本の薔薇だった。カプセルになど守られなくともフランの胸の中で永遠に咲く生きた花。
 幼い二人は、その胸に大切な星を持っている。




∴apprivoiser


20130221