水鳥と茜 | ナノ



 軍の基地なんかもあるこのド田舎の風景とあたしは不釣り合い。ずっとそう思って生きてきた。
 あたしは田畑しかない畦道をぶっきらぼうな態度で突き進んでいた。のそりのそりと歩くたび、ぬかるんだ田舎の道が憎らしくなる。あたしは早くこの町を出て行きたいのだ。自分の部屋がある家に引っ越して、自分の為だけにお金を稼ぐ。則ち、実弾。現実に利益のあるものだけが欲しい。ノスタルジィだとか情緒だとか風情だとか、あたしには分からないし、要らない。例えば、中学を卒業したら自衛隊に入隊して、軍人さん用の映画の割り引きを利用する方がそれらのものよりよっぽど実用的だと思う。甘い甘い戯れ事だけでは、この世界を生き抜くことは出来ないから。
 そんなふうに苛々しながら歩くあたしの後ろから、ぱしゃり、と、聞き慣れたシャッター音の次に、これまた聞き慣れてしまったミネラルウォーターをぐびぐびと飲む音が聞こえてくる。あたしは一つ間を置き、それから大袈裟にため息をついた。そして振り返る。橙に染まった濃い山の向こう側に、大きな赤い太陽がどろりと影を落とし、沈んでいくのが見えた。その様はどうにも不気味で、あたしには酷く恐ろしく見えた。もしも世界の終末が来るのなら、きっと、こんな夕焼けの中だろう。あたしらしくもなく、何故だかそんな気分になってしまうくらい。
 
「茜、あんた何してんの」
「――写真撮ってる」

 都会からやってきた転校生、山菜茜はあたしの嫌いないつも通りの作り笑いを浮かべていた。そしてまた、再びシャッターを切る。ぱしゃり。なんて、乾ききった哀しい音なんだろう。そうぼんやり思った。
 彼女は写真を撮ることが好きで、ミネラルウォーターをよく飲む馬鹿みたいに綺麗な女の子だ。瞳は最近流行りのつけ睫毛なんかしなくても十分大きくぱっちり開いている。程よく短くされたスカートから伸びるすらりと長い脚も、その中にどうしようもなく広がっている青い痣に目を向けさえしなければ、陶器のように滑らかな肌がとても美しい。あたしの周りでぺちゃくちゃと噂話に興じる女の子たちとはまず作りから違うのだ。異質な美しさと同時に、形容し難い不気味さも兼ね備えた、あたしの唯一の友達。それが山菜茜という女の子。
 茜は、現在進行形であたしたちの通う教室に強烈な影響を及ぼしている存在でもある。彼女がかなりの変わり者であることはもう既に学校中に知れ渡っている。何たって転校して来た時の挨拶が「私は人魚のお姫様です」と来たもんだ。そりゃあ、嫌でも気になってしまうだろう。ぴょこぴょこと跳ねるように歩く様も、不可思議を遥かに越えたメルヘンな言動も、田舎では誰も買わないミネラルウォーターを飲む姿も――みんなが皆、彼女の存在を際立たせている要素となっていた。

「水鳥ちゃん、この世界はどうしてこんなに綺麗なんだろうね」

 ほら、やっぱり、いつだってこの子の話は唐突なのだ。
 茜は遠くを見つめながらそう零した。あたしはそれに、ハァ?と不機嫌に返す。恐ろしいほど鮮やかな夕焼けが茜を照らしていた。あたしにはそれが、茜を焼き尽くす低温の炎のように見えた。

「綺麗かぁ?こんな世界が?」
「うん。綺麗。そしてここは特に綺麗だと思うよ」
「…ド田舎なのに」
「水鳥ちゃんはここが嫌い?」
「嫌い。大嫌い」

 あたしが即答すると、茜は少しだけ、本当に微かに悲しげな表情を浮かべた。でもすぐにそれはいつもの微笑に戻り、彼女はまたシャッターを切る。今度はどうやらあたしを撮ったらしい。恥ずかしいから止めろよ、と言ったけど、茜はいっそうニコニコ笑うだけだった。

「そっかぁ。嫌いかぁ。でも私は好きよ。この田舎も、世界も」
「…アンタの家も?」
「――うん、大好き」
「………そう」

「水鳥ちゃんのことも、大好きだよ」

 優しく、あたしの心の表層を撫でるような甘ったるい声に背筋が震えた。好意は嬉しい。けれど、茜は異常だ。大量の痣を細い身体に抱えていながら、こんなにも愛にあふれているなんて。
 山菜茜が実の父親から虐待を受けていることは、彼女の家の近所に住む人間やあたしの母親のような地域の情報に聡い人間なら誰でも知っているどうしようもない事実だ。あたしは、多分この地において初めて茜の痣を見た人間。あたしがあの痣を見てしまって以来、あの子の足は濃い紫色のタイツに包まれるようになった。
 児童相談所が動かなかった訳ではなく、近隣住民からの通報を受けて過去に何度も茜の自宅を訪問し聞き取り調査を行っているそうだ。しかし、何故か茜が絶対に父親のことをかばうので保護のしようがなかったという。お父さんは悪くない、私は、お父さんを愛しています。良い子です――。そんな事を口にする茜は容易に想像出来て、気分が悪くなった。あたしは、明らかに様子のおかしいあの子を放置する児童相談所の大人達は大口を叩く割には無力だと思う。けど、茜自身はもっと異常だし、だからこそやるせない。彼女をそこまで異常にしてしまったのが、父親に対する純粋で透き通った愛に他ならないことが。茜は自分に暴力を振るうろくでなしの父親のことが好きなのだ。少しの間、あの子とあの子の父親を見てきてあたしはどそんな結論しか出せなかった。どうしても、嫌いに、なれないのだ。
 上手に動かなくなった茜の白い足。ニコニコと笑い続ける気味の悪い表情。今は夕闇に紛れて、よく見えない。けど、その顔が残念そうにぼんやりと歪んだのをあたしは見逃さなかった。

「私ね、でももうすぐ行かなきゃいけないの」

 そう言って、彼女はまたシャッターを切る。酷く渇いた、平淡な声だった。

「何処に」
「南の海に」
「なんで」
「私が、人魚姫だから」
「そのくだらない嘘、いつまでつき続けるの?アンタ」
「う、嘘じゃないよ」
「嘘」
「嘘じゃないんだってば!」
「いいや、嘘だね」
「水鳥ちゃん、ひどい。嘘じゃないないのに。わたし、人魚姫なのに。ねぇ、人魚だから消えるのも怖くないんだよ」
「……」

「嵐が来るよ、水鳥ちゃん。とっても大きな嵐。わたしそれに飲まれちゃうの。それから、あたたかい南の海に帰るの。でも痛くないんだよ。全く、痛くなんかないんだよ。ねぇ、わたし、わたし―――」


 ――人魚なの。
 ぶくぶくと泡が零れる。茜は、必死に主張を続けながらミネラルウォーターをがぶがぶと豪快に飲んだ。あたしは、あたたかい南の海を想像してみる。そこを気持ち良さそうに泳ぐ一匹の美しい人魚。嘘みたいに平和な面持ち。穏やかな風景。
 でも、どんなに綺麗な想像を浮かべてみたって、茜の吐き出す虹色の泡はただ甘いだけの妄言でしかないし、あたしはそんな姿を傍観することしか出来ない。歯痒い。痛い。辛い。ねぇ、茜。アンタどうして助けを待たないの。なんで、あんな親父のことを想うの。――あたしは、怒っていた。友達に助けを求めない茜に、それから、自分自身に対しても。実弾は何処にある?どうすれば、早く、大人になれるの?それとも、大人になったとしても結局あたしには何も出来ないのだろうか。児童相談所の大人と、大して変わりは無いのだろうか。そんなふうに巡り始める思考を止める術は何処にも無くて、あたしは、ただただ自分の無力さを歎き続けた。夕闇に消えてしまえたらどんなに良いだろう、と、冷たく寂しい気分に浸ったりもした。
 茜もあたしも、暫くの間は何も発しないまま狭い道を歩き続けた。夕陽はとうに山の反対へ沈み、星は綺麗に瞬き、悪天候になりそうな前兆などは見受けられない。あたしは何度目かのため息をついた。茜は、あたしと目を合わせないように気を使っているのか、ひたすらにシャッターを切り続けていた。彼女の写真に映った向こうの黒い山は、不穏な雰囲気を纏いながらあたしたちを見下ろしている。


「嵐が、来るよ」


 別れ際、茜は飲み干したミネラルウォーターのペットボトルをごみ箱に投げ入れて、いつものようにニコニコと笑いながら囁いた。畦道に伸びる夕闇の陰のように纏わり付くその声は、ねっとりとした哀しみをあたしに残して消えていった。茜はこんな時でもとても美しかった。スカートから伸びる紫色に包まれた足は細く長いし、ぱっちりと開かれた瞳は透明な煌めきを放っている。だけど、あたしにはそれが、同時にとても悲しい姿のように映った。今思えば、悲しいのは茜ではなくて茜と同じ場所に立てないあたしだったのかもしれないけれど。茜がまだあたしの隣にいて、あたしの唯一の友達だった頃。茜は美しく悲しい姿のまま、あたしに向かって甘い甘い砂糖菓子の弾丸を放ち続けていた。


「水鳥ちゃんは逃げてね。絶対よ」

 自衛隊に入ることを諦め、高校に進学したあたしの隣に、もう茜はいない。あの子は結局南の海の人魚姫にはなれなかった。茜の終わりは、ばらばらになった身体の浄土の果てにあった。茜が大事にしていた写真たちは、すべて父親によって焼き払われていた。現実は、何処までも厳しい。捨てられない愛を胸のうちに抱え込んだまま、辛い仕打ちに堪えられるほどあたしたち子供は強くない。
 あたしは茜のことを忘れないだろう。茜との少ない思い出を、大事に内に仕舞い続けるだろう。あんなにも甘い弾丸をぶつけられては、忘れようと思っても忘れられないに違いない。けど、それ以上に、茜はあたしの大事な、大好きな、女の子だったから。海に消えてしまう人魚姫なんかじゃない、たったひとりの、無力で愛おしい人間だったのだから。



∵あなたの甘い愛をどうしようもなく信じていたかったわたし
20130207

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