「フェイの幸せは何処にあるん?」

 膝を抱えながら夜空を見上げる黄名子は、あまねく広がる星々のどれといったひとつでもないものを指差しながら呟いた。隣で同じように膝を抱えていたフェイはゆっくりと黄名子を見つめ、それから彼女の視線の先を追うように夜空を見上げた。人工的に生み出しているのではと疑いたくなるほど、煌々と数多の星が浮かんでいる。少なくともフェイのいた時代ではこんなに壮大な星空を見たことはなかった。プラネタリウムという装置があることは知っているが、フェイはそれを利用したことはなく生まれて初めて星というものに感嘆していた。この時代には素敵なものがある。そう実感した瞬間、フェイの胸に疑問の念が湧く。

 さて、ここは何処だったっけ?

 そう思った瞬間、これまで腰を下ろしていた地面の感触が消え、潰れたクッションのように柔らかさと硬さの中間の感触が生まれた。夜だから暗いのだと思っていた視界は瞼を降ろしていたからで、ぱちりと開けば橙色の明かりがフェイの瞳を刺激する。これは先程までの白い星明りとは違う人工的なものだと直ぐに知れる。状況を把握しようと周囲を見渡すと、そこはどこか列車の車両のようだった。きょろきょろと何度も視線を彷徨わせるフェイを、すぐ前の席に座っている黄名子はおかしそうに微笑みながら見つめていた。何も驚いていない風の彼女に、フェイは一体全体どういう状況なのか尋ねてたかったけれど、それよりも先に木枠の窓を上に開いて外を指差されてしまった。「見て」との言葉に頷いて素直に窓の外に顔を向ける。
 窓の外には先程まで見上げた星空がずっと近くに広がっていた。ただフェイにはそれが前なのか下なのか上なのかもわからない。ガタンゴトンと音を立てながら進むのは黒塗りでフェイからすれば古風な車体の列車で間違いないのに、煙を上げて走る車両の下にレールらしいものは見えない。まさかこの列車は空を飛んでいるのか。

「そんなTMキャラバンだって飛べるんだもん。なあんにもおかしいことなんてないやんね?」

 黄名子の言葉にそれもそうだねと頷く。でも僕は今考えたことを口に出していたかなと不思議ではあるのだが、それを言葉にすることはできなかった。フェイと黄名子しかいない車両は二人が喋らなければ当然静かになる。いつもうるさいくらいのワンダバは何処ではぐれてしまったのだろう。そもそも自分たちはいつの間に列車に乗り込んだのだろう。わからないことだらけなのに、焦りや不安といった感情は全く湧いてこない。ただ手持無沙汰の退屈だけが辛かった。黄名子はまるで何もかもを知っている顔で穏やかな笑みを崩さない。それがどうしてか悲しい。
 開け放したままの窓は少し目を離すといつの間にか広がる景色を忽然と変化させていた。夜空の星屑はたちまち美しい花畑へと変貌しており、羽ばたく鳥たちの名前をフェイはしらないまま綺麗だと眺めていた。そしてまた思う。

 さて、ここは何処だっけ?

 そんなことは自分の目で確かめなよと言うように、列車は甲高いブレーキ音を響かせて停車した。それと同時に席を立った黄名子を慌てて追い駆ける。何処に行くのと後ろから尋ねれば彼女は振り返り鳥を見に行くと列車からも降りてしまった。

「ここで降りるの?」
「ん?」
「ここに用があって列車に乗ったの?」
「ううん、違うよ」
「じゃあ途中で降りたの?大丈夫なの?」
「平気平気。時間を守れば問題ないやんね」
「でもさ、じゃあ切符は?僕たちお金払ってないよね」
「変なフェイ、切符がなきゃ列車には乗れないよ?」
「うん、だから――」
「ほら見てフェイ、あの鳥の色、とっても綺麗!」
「…そうだね」

 制限時間を知らないフェイは終始落ち着かず、黄名子に笑われてしまった。そろそろ帰ろうとフェイの手を引いて歩く彼女の背中は自分よりも小さい。枇杷茶色の髪が揺れて、繋ぐ手に触れそうなのに触れない。この手だけなのだと、自分たちの繋がりが急に心細く感じてフェイは握る手に少しだけ力を籠めた。自分たちが乗っていた車両がわからなくなってしまったフェイに、ひとつだけ窓が開いている車両がそうだと黄名子が指を差す。今日は随分彼女に指し示されてものに気付く。
 それから何度も車窓の外の景色が移り変わる度に列車は停車し黄名子は外に飛び出した。フェイは後を追いここがどこなのかも時間感覚もわからないまま彼女に手を引かれて列車に戻るという動作を繰り返す。列車が走っている時間も含めればもう相当の時間が経っているはずなのに、フェイの身体には疲労も眠気もやってこない。それは変わらず前に座っている黄名子も同じだった。

「――ねえ、フェイ」

 この列車にいつの間にか乗り込んでしまってから、初めて黄名子が先に口を開いた。内心ではそんなことに驚いていたのだけれど、できるだけ表情は崩さないように意識しながら視線で聞いているよと伝えその先の言葉を促す。

「フェイ、フェイの幸せは見つかった?」
「――え?」
「これは貴方の旅、貴方の列車、貴方が出会った世界、貴方が望む未来、全部全部フェイのものなんだよ」
「何言ってるの黄名子」
「だからうちは途中で降りなきゃいけない」
「何処で?そこで僕も――」
「ダメ。フェイはずうっとずうっとこの列車の終点まで行かなきゃ。だってこれはフェイの列車やんね」

 意味が分からないよと繰り返すフェイを横目に、黄名子は車窓の外に身を乗り出した。危ないよと注意すると間延びした声で大丈夫と返ってくる。こういう時は注意するだけ無駄なのだろう。
 フェイは混乱してきた思考を落ち着かせる為に目を閉じる。列車の振動だけが伝わってくる。この知らぬ間に始まった乗車の道行きは旅だったのか。大前提を知らないフェイは黄名子の言葉の意図を半分も理解できない。ころころと変わる外界はタイムジャンプを繰り返すようにちぐはぐだった。

 一緒に見つけてあげたかったんだけど、でもフェイなら大丈夫やんね。

 ふと、耳の奥でそんな声が広がった。声の主は姿を映さずとも独特の鉛が目の前にいる黄名子であることは間違いない。だが外から入ったというよりも内側に広がった言葉にフェイは閉じていた瞼をはっと勢いよく開けた。

「――黄名子?」

 呼んでみるも、目の前に彼女の姿はなかった。開け放たれた窓から吹き込んだ風はフェイだけに当たる。立ち上がり車両内を見渡しても誰もいない。出て行った形跡もない。そもそも黄名子が立ちあがった気配も、立ち去った足音もしなかったのだ。
 そして右も左もわからないこの列車の旅の連れが消えたというのに、フェイの胸はにわかに空っぽになってしまったかの如くで、また座席に座り込んでしまうともう動く気力が湧いてこなかった。頭をもたげて、視線を上げて窓の外を見つめることすらも。

「こんばんは、もう直ぐ×××ですよ」

 突然、頭上から声が降ってくる。それはフェイの沈んだ心地とはかけ離れた明朗な響きで以て耳朶を打った。また聞き覚えのある声だと緩慢な動作で顔を上げ、声をかけてきた人間を確認しようとしたができなかった。聞き取れなかった言葉を聞き返すことも。瞳が初めて自分と黄名子以外の第三者を捕えようとした瞬間、フェイの意識は途切れていた。


 フェイが目を覚ますと、そこは列車に乗り込む前にいた丘だった。草地の上に膝を抱えて座り込んでいる。変わらず広がる夜空に浮かぶ星々も変わらずフェイの遥か頭上に鎮座していた。ただひとつ記憶と違ったのはどれだけ周囲を念入りに見渡しても、そこに黄名子はいなかった。

「――夢?」

 果たして、どちらが。えも言われぬ奇妙な感覚。黄名子を探さなければと思う半面、それは必要のないことだと理解している自分がいる。

『フェイの幸せは何処にあるん?』

 車両の中最後に聞いた声とは真逆。耳元近くで囁かれた声に慌ててまた首を回して辺りを確認するもそこに黄名子の姿はなかった。ひょっとしたら、記憶の再生だったのかもしれない。割りきってまた夜空を見上げる。煌々と輝く星々を指差して黄名子は言ったのだ。フェイの幸せは何処、と。
 どこだろう。見上げてもわからない。あるかどうかも。でもあんな無数の中に紛れ込まれてはフェイだってきっと探し出せないだろう。何せ手が届かないのだ。

「何処にあるんだろうね、ほんと」

 呟いて、立ち上がり服に着いた汚れを払う。
 もう夜空を見上げることはせずにフェイは歩き出していた。




∴僕の幸いを担う貴女を失った夜のことでした
20130208