「ごめん、来ちゃった」
玄関の前にしゃがみ込む見慣れた赤髪と相変わらず浮世離れたその姿は申し訳なさそうに弱く微笑んでこちらを見上げている。
「ヒ…ロト…?」
ちょっと待って、頭がついていかない。まさか幽霊じゃないよね。
俺は立ち尽くしたままこの状況を把握する事で精一杯だった。
薄暗い蛍光灯の下でヒロトは震えているようにみえた。まだ風は寒い、でも理由はそれだけじゃない。それよりもさっきから心臓が跳ねるのを止まってくれない事の方が重大だ。
つまびくは、 (1)
「連絡入れてくれれば何か買ってきたのに、バイト先の残りしかないよ?」
「大丈夫だよ気にしなくて」
記憶の中の彼と今目の前に存在する彼との違和感に少し警戒してしまう。
「そんな訳にはいかないだろ。はい、冷めてるけど味は美味しいから。チンする?」
いつもなら自分が食べるはずのもの、から揚げのパックと太巻きを袋から出して机に広げた。
「ごめん、本当に」
いただきます、と静かに言って太巻きに手を伸ばす。
「募る話は後でいいから、いっぱい食べろよ。」
食べ物をあまり美味しそうに食べない所は全く変わってなくて、その無機質な食べっぷりを眺めながら一体いつから食べてなかったのかと心底心配になる。
「でもさ、よく家わかったね。二年前に教えてただけだったじゃん」
「なんとなく、まだここに住んでそうだなって思ったんだ」
「もし引っ越してたらどうしてたんだよ」
「その時は諦めて帰ってた、かな」
聞きたい事は山ほどあった。
なぜ二年前連絡を絶ったのか、そしてなぜ今更こうして会いに来たのか。けれどどうしても聞けない。
今ここで理由を聞けたとしても俺にはどうする事も出来ないし、やっと築いた自分の生活を崩す訳にもいかなかった。もう傷付くのは嫌だ。
「あのさ、リュウジ」
「…ん?」
「二年前の事なんだけど」
「…うん」
「怖かったんだ、凄く。リュウジの事好きになるにつれて自分が自分じゃなくなるような気がいつもしてた」
「だからいきなり消えたって事?」
さっきから目が合わないのは自分が避けているからだろうか。
「そうするしかあの時は出来なかった」
「俺がどう思うかとか考えた?」
ヒロトとは高3の終わり頃に突然音信不通になった。
別々の場所に通い暮らす俺達の連絡手段と言えば携帯電話くらいで、二週間に一度会えるか会えないかそんな距離感でもお互いにお互いを信じてる、と思っていた。
連絡もマメなヒロトだったから突然こんな事になるなんて思っていなかったし、何か事故にでも遇ってしまったんじゃないかと悪い考えがよぎっては毎日生きてる心地がしなかった。
「本当にごめん。大切だったから…リュウジの事壊してしまいそうだった」
「もう、ごめんとかはいいよ。昔からヒロトはずるいよな。何だかんだ言って自分が一番可愛いんじゃん」
「リュウジ……」
時間を巻き戻したい、こんなにも真剣に願ったのは今日が初めてかもしれない。こんな顔を見るなら無慈悲でも無視するべきだった。
「明日も朝早いからごめんだけどもう寝るね。ベッドはこれ使えばいいか…」
あまりの思わぬ出来事にまた頭がぐちゃぐちゃになってしまった。今重なっているのはずっとずっと大好きでたまらなく愛していた人の唇で無理矢理に押し付けられたそこに思考が、息が出来ない。
「ちょ…ヒロ…!冗談のつもりならもう本当にやめ、て…くれ…!」
今迄ならばどれだけ待ち焦がれた出来事だろう、どれだけしあわせなハプニングだっただろう。
絡み付く腕と唇を思い切り押し退けると、捨てられた子供みたいな顔でこちらを見ていた。
それからヒロトは何も言わなかった。
少ない荷物をまとめてから呟くようにごめんと言って、こちらまでやるせない様な情けない様なよくわからない気持ちになってしまう。
そして彼は家を出て行った。
まだ肌寒い4月の夜に、薄いカーディガンを羽織っただけの後ろ姿で。2年前に憧れていた背中はもう存在しなかった。
途端に苛立ちが込み上げる。
まるで自分が悪い事をしたみたいじゃないか。勝手に去ってまた勝手に現れて勝手に心を乱されて。でも。
さっき玄関で彼に再会した時うれしくて本当は泣きそうで、抱きしめてしまいたかった。キスをしてきた唇が変わらず冷たくて優しくて、気持ちが一気に蘇ってくるようだった。
けれど自分を捨てた事への苛立ちと傷はあまりに深くて、この空白は長すぎた。
この短時間のうちの嵐みたいな出来事と仕事の疲れで、一気に力が抜けてしまう。
しゃがみこんで先程まで彼のいた机に目をやると、飲みかけのコップと律儀になおされた割り箸が寂しそうに置かれていた。