短編 | ナノ
「え〜と、……すみません、もう一回いいですか?」
「うん、いいよ。ここは――」

もう部活をしていた生徒も帰り始め、校内に残る生徒もまばらになってきた頃、俺は教室で東先生に数学を教わっていた。本当は、ちゃんと数学担当の先生に質問に行こうとしたのだが、運命のイタズラか、たまたま廊下を通った東先生が一人教室に残っている俺を見つけてしまい、結果的に彼に教えを乞うこととなったのだった。
憧れの存在で想い人でもある東先生と教室に二人きり。そんな状況から一刻も早く抜け出したい俺は、いつもより頭が回らない。説明が上手く飲み込めず、申し訳ないことに同じ説明をしてもらうのもこれで三度目だ。勉強のことに意識を集中させ、先生が目の前にいるという事実を忘れようと努めるが、先程からどうも上手くいかない。せっかく教えてもらっても、成果がないのでは、先生もそろそろ嫌気がさしてくるだろう。
……しかし、そんな俺の心配とは裏腹に、先生は先程よりもさらに丁寧な説明をしてくれだ上に、穏やかな笑みを向けながら「塚原くんもお疲れかな?少し休憩しよっか」と俺を気遣ってくれた。

「すみません、もう遅い時間なのに……」
「気にしなくていいよ。塚原くんこそ、大丈夫なの?」
「俺は、親に連絡してあるんで」
「そっか」

そう言ってにこりと笑った先生は、伸びをしながら窓の方へと歩いていく。締め切っていた窓を開ければ、心地好い夜風が吹き込んでくる。先生の柔らかそうな髪がふわふわと揺れ、俺はその横顔を思わずじっと見つめていた。
やっぱ、カッコいいよなぁ。同じ男ながら、改めてそう思う。顔が整っているのももちろんあるけど、なによりも中身がカッコいい。俺も、先生みたいになりたいと何度思ったことか。
ボーッと横顔を見つめる俺の視線には気付かず、先生は夜風に吹かれながら空を見上げていた。そして、小さく「あ」と声を上げたかと思うと、俺の方を振り返る。突然目が合い、動揺した俺は慌てて視線を逸らすが、こっちの行動の方が不自然だったと後悔した。しかし、先生はそのことには触れず、手招きして自分の隣に来るように促す。どうしたのかと疑問に思いながらもその誘いに応じれば、ほら、と先生が夜空を指差す。

「月、とっても綺麗だよ」
「……本当ですね」
「こんなに綺麗に見える満月、久しぶりだよね」
「天気、崩れがちでしたもんね」
「…………夏目漱石はさ、I love you を月が綺麗ですね、と訳したそうだよ」
「え、」

先生の言葉に、思わず彼の方を振り返る。あまりに唐突な発言に戸惑う俺をよそに、視線の先にいる先生は、相変わらず穏やかな表情で月を眺めていた。

「でもさ、僕は思うんだ。そんな遠回しな言葉じゃ、やっぱり気付いてもらえないんだろうなって。伝えたいことは、相手にわかる言葉にしないとダメなんだろうなって」
「………………………………」
「ねぇ、塚原くん。1分だけ、先生やめてもいいかな?」

ようやく視線を下ろした先生は、真っ直ぐに俺を見つめていた。真剣な表情に、俺の喉は機能を失ったかのように、なんの音も発しなかった。
先生は、なにを言って……?

「俺ね、塚原くんが好きだよ。ダメな教師だと罵ってくれてもいい。ダメな大人でごめん。失望したと思うし、きっと困らせてるよね。でも、やっぱり言いたいんだ。もう、抑えきれないんだ。俺は、塚原くんが好き」

先生の言葉は、俺を混乱させるには十分すぎた。だって、先生も俺が好き?好きな人が自分に告白をしてきたという事実が信じられなくて、夢でも見ているのではないか。勉強のしすぎで幻想でも見ているのではないか。と不安になる。けれど、何度瞬きをしても、目の前の光景は変わらない。なんだよ、これ。こんなん、夢にも思ってなかったって。
何も言えずに立ち尽くす俺を前に、先生は勝手にフラれた方向で自己解決をしようとしている。今のは忘れてくれていいからなんて、忘れるわけねぇだろ。だって、俺も――。
今日はもう帰ろっか、と窓を閉め始める先生のスーツの裾を掴み、先生の背中に額を付けて寄りかかる。俯いたままの俺は、一度だけ深呼吸をすると、勇気を振り絞って一言だけ口にした。





「月が、綺麗ですね」

- END - 





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