*言葉に、出せない

 樹に呑まれた海は空すらも緑にした。葉一枚一枚の薄さで色づけされた暁は、風に揺れて僅かな色を覗かせる。ともすれば影となり得る木々の宴は、しかし陽気に行われた。天辺を埋め尽くさんばかりの柯葉はそうしない慈愛で、太陽を二人に捧げている。
 その明るさを避けるように、二人は歩いていた。削らんばかりの激しさで、ペタは地を蹴る。獰猛な歩みにロランは怯えながらも、後を追うしかない。罪業を責めたてられているのだと妄想して、それを真実と認める者はいない。
 降った光すら血潮の色をしている。あの時滴った赤いものと同じ。あれは今もまだ大地を汚して、死の足跡を残しているのだろうか。それともあの男を忘れ、次の生を貪欲に待っているのだろうか。
 そのどちらも恐ろしかった。ロランの小さな胸に、あの男は巨大な影を落としていった。自身の大きさを知ってしまう輝きで、男は笑っていた。 ロランは問いかける。何度でも、答えをねだった。尋ねて尋ねて、絶望する。

 彼の命、僕の命。軽いのはどちらか。

 握り締めた掌すら小さい。こんな幼い拳で、一体何が出来るというのだ。目の前の人に追いつけない程の僅かな歩幅が、憎くてたまらない。走るように歩くペタの背中は大人のそれだった。
 どうしたって追い付けない。どうしても、あんな風にはなれない。何もかもを見通し、ファントムにすら信頼される影。眼前で揺らめく彼に対して湧くのは嫉妬だ。助けられた過去すら亡き者にする、醜い心ばかりだ。消えてしまいたいという呟きは駆け巡り、ロランから時を奪った。どれだけ歩いたのか、気づかない内に明るさ暗さに変わった。残った灯火は僅かで、一つの家を射すのが精一杯だった。
 小さな家だ。亡骸のように縮こまり、怯えた視線を投げ掛けている。蔓草で壁面を隠し、立ち入ることを拒んでいるようだ。卑屈なそれの視線に、目を合わせられずにいる。逃げ出したい思いで、傍らに立つペタに助けを求めた。しかし見上げた瞳は暗く、希望を知らせない。
 取り残される感覚。目を逸らされた記憶が、痛みに変わる。回顧が再び現実になるようで、怖かった。

「着いたぞ。お前は今日からここに住め」

 混乱の渦中に、答えだけが落とされた。明瞭な宣言は唐突な命令で、拒否すらも忘れてしまう。呆然と家を見、疑問に明け暮れた。間抜けなその様子は、ロランの理想からは遠い。

「何か不満が?」
「あ、あ、ありません!」
「当然だな。一週間後にまた来る」

 たったそれだけ。ペタはロランに一つの鍵を渡し、去ろうとする。掌で主張する鍵の重さは、現実にしては軽すぎる。指の腹で縁をなぞり、簡素な感触に不安がつのった。無駄な装飾を拒んだ鍵の、鈍く淡い銀色の光。それと不釣り合いになるように嵌め込まれた赤い宝石に、心が掻き乱される。たったこれだけで、全ての生活が変わるなんて信じられなかった。
 変遷する速度は、いつも呼吸より早い。ロランが考える暇もなく、景色は塗り替えられていく。その早さに怯えすくんでいた自身が、どうしようもなく嫌いだった。

 沈黙すれば、彼は消える。その前に、どうしても言わなければ。言わなければ、もう伝わらない。

「待って下さい!」

 掴んだ裾から驚愕が響いた。

「ペ、ペタさんはどうするんですか?」
「私は…私は世界を回って同志達を纏める」
「どこに、住むんですか?」
「どこでもない」

 そう、小さく。断絶するような物言いで、ペタはロランを拒絶した。蝋人形のような顔は背けられ、視線の行方を追えはしない。
 あの時と同じ。知らず漁った記憶は、動悸すらも再現した。休みなく働く鼓動は、見捨てられた過去と。その刹那に感じた絶望と同じだ。しかし違うこともう知っていた。
 ペタは拒んでなどいない。ただロランを思い、それを悟られないようにしているだけだ。気遣いを隠すのすら、自身のためであると分かった。
 甘いのだ。ペタの嫌う馴れ合いを、彼は所有している。いずれ腐るような暖かさと、甘さ。心地好いそれらを、ロランはもう無視できない。






top
- ナノ -