惑っている暇はない。裾を掴んだ手が弱々しく震えた。振りほどかれる前に、心を作らなくてはならない。ペタの見下ろす瞳に、ロランは息を呑んだ。彼が優しいなんて錯覚ではないかと、脳裏の子供が囁いた。
 ペタが優しくなければ。それに気づかないでいられたら。幾つも並べたもしもが、誘惑するように宣った。沈黙していても、いいのではないかと。もがいて形にした言葉が、不必要だったならどうする。そんなみっともない真似、再び晒すとでもいうのか。
 違う。違う、違う、違う。もう進むしかないじゃないか。気づいてしまったら、子供のままでいられない。そんなことファントムは望まない。
 叩きつけるように思った。同調して荒れる呼吸は、声を阻害する。主の命令に背くばかりの器に絶望した。望む骨格でないばかりか、些細な願いすら拒否する。今、喉はひきつり、声は出ない。
 溜め息が一つ。ロランではない、ペタだ。呆れられたんだよ、と草木が囁いた。冷たい風の愛撫は、どうしたって嘲りだ。

「何の、つもりだ」
「……そのっ、あの、僕……ご、ごめんなさい」
「ならば離せ」
「違い、ます。僕、勝手な事をして、それで……」

 窺った顔色が分からない。まるで虹の境目のように、全てが溶け合っているかのようだ。ありとあらゆる混沌が、感情と名付けられた。それがペタのことなのか、自分のことなのか、ロランには見分けられなかった。

 夕暮れは夜に変わった。

「もう二度とするな。……それと、あんな屑に負けない程度には強くなれ。あんな大した能力も人間なぞ家畜と同じだ。迷わず、殺せ」

 言葉は氷柱のように凝固している。隠された真意のために溶かすには、あまりにも冷たく、あまりにも鋭利過ぎる。ロランは傷つかないように、それを避けるので精一杯だった。氷を水に還すのは諦め、心を雪に埋めて衝撃を忘れるしかない。
 しかしロランはもう知っている。雪解けは春を呼ぶと。ペタの言葉は、守るためにあると。

だから、もう、見失わない。

「はい……あの、」

優しさを手に入れよう。そうすれば、ファントムもきっと。

「まだ何か?」
「ペタ、さん……その泊まるとこ、ないなら、その……一緒に……」

 言え。言って、優しい人間になるのだ。気恥ずかしさなんて捨ててしまえ。ファントムに必要なのは、強いだけの人間ではないのだ。
 砂時計は少し砂を落とした。連続する流れに足を取られ、まだ言葉は出ない。自身を励まし、震わせた喉はしかし、無意味になった。

「……ロラン、旅の足掛かりとして、私もここに住まわせてもらうぞ。元より私の管理下のものだ、異論はないな?」
「っ!……はい」
「そうか。それではもう行く。帰りは一週間後だ」

 今度は引き留めない。引き留め、られなかった。ロランは真っ暗になった世界に、一人佇んだ。暗黒は眼球から入り、心まで黒く染め上げた。悪夢のように質感がない両足は、簡単に膝から崩れた。夜が沁みた双眸からは、温い涙が流れて止まらない。

言えなかった。
言葉に出せなかった。
優しくなれないままだ。

僕はまだ、ファントムに必要な人間じゃない。



end


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