ペタの過去をファントムは知らない。

 記憶という曖昧な汚泥に、邂逅以前は刻まされていない。ペタが抱えた傷の深さを、ファントムはただ傷痕からしか憶測するのみだ。たとえ彼から過去を示されようが、興味もない。
 どうでもよかった。ファントムにとって大切なのは、自身の網膜に映したペタだった。移ろいやすい脳裏の足跡など、真実ではない。動く時の中、感じられる今の彼だけが全てだ。
 向けられている濡れた瞳。荒れた吐息と震える鼓動は、疲労と高揚の証だ。血液は境界を見失い、燃え盛っている。融け合った視線は領域を失い、繋がり爛れていた。

「随分遠くまで来たね」

 囁き、笑う。ペタの終着は己だったから。ペタが歩いていた茨道の先は、もう塞いだ。道程は長く苦しくあったろうが、終りはこの胸中だ。
 愉快だ。ペタが逃避することはない。手の内に棲み、時を重ねるだけだ。

「仰っている意味が……」
「分からない?いいよ」

 理解はないだろう。布に溺れるペタの困惑を知りながら、ファントムはそれを無視した。それどころか動揺を誘うように、耳朶を口に含む。執拗に愛撫すれば、心と身体は同様に波打つ。

「お、止め……下さい」

 しとやかな反証は唇で殺した。小さな痣を作るように、固く口づけをする。肉の熱さを感じながら深淵まで貪れば、理性は失せるだろう。
 やがてペタの瞳は濁り、こちらに問いかけた。冷めたようでいて、熱情に溶かされているのが分かる。
 舌を絡ませながらファントムは笑った。歪な笑みは呆気なく伝播し、ペタに理由を与える。従順に留まっていた体は、しなやかに拒絶した。

「一体何なんですか」
「嫌かな。僕と寝るのは」
「そうではありません。……何か、懸念すべきことでも?」
「心配してくれるんだ。優しいよ、ペタは」

 そう言って、喉に噛みついた。驚愕に揺れる骨やら筋肉やらの感触を咥内で味わい尽くす。痛みを与えないように、緩やかな手際でいるとやがて血の巡りだけが響くようになった。
 そのまま、暫く。僅かな赤みを残し、離れるファントムをペタは追った。せがむように両腕が、ファントムを求めてさまよう。

「首輪みたい」

 そう言って、また喉元を蹂躙する。今度は噛むのではなく、舌で肌を浚う。脈打つ肌の感触は、柔らかな果実のように熟れている。
 甘い。ファントムは汗を舐めとりながら、そんな事を思った。もし彼を噛みちぎれば、もっと甘いのだろうか。情事の熱に浮かされた頭には、戯れ言ばかりだ。それすらも楽しみながら、ファントムは舌を滑らせていった。
 喉仏を捉えていた舌は、首筋をなぞり、鎖骨をこえて、胸元まで達した。しかしそこで留まらず、更に先を求めた。ゆっくりと向かった箇所は、背中。肩胛骨の山をなぞり、思う。

これは逃げない。

 ペタは永久に、傍にいるだろう。全身に回る紫の刺青が教えてくれる。裏切りを知らぬまま、永遠を数えるのだ。
 なんと、素晴らしいのだろうか。ファントムは恍惚しながら、刺青を舐めた。繰り返し、消えないことを確かめるように。

「好きだよ。ずっと好きだ」
「私も、です」
「そうだ。君はずっと僕と一緒にいるんだ。永遠に、死ぬこともなく!」

 幼子が母を求めるそれだ。糧を得るかのように、舐めて吸った。赤い足跡を残し、まだ足りないと叫ぶ。時間を重なれば、いつか一つになれるだろうか。

ペタの過去をファントムは知らない。

 この先も多分、知ることはない。ファントムの興味は、そんなところにはなかった。今こうして、ここにいる彼が全てなのだから。
 傷一つない素肌。しかしその奥に押し込めた記憶は、禍々しいものだろう。痛みを伴う回顧など、させはしない。人を憎み、自身も人であることに絶望した瞳は美しい。
 ペタは人間だ。しかし、もうすぐ違える。胎児の頃より、人間であったのに、そうでなくなるのだ。

「深いところまで、落ちたね」
「……本望です」

ペタの過去をファントムは知らない。
知らなくとも、彼はここにいる。

End



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