困難だろう。地下を好む悪夢は、周到で狡猾だ。それを全て取り除くには、相当な時間を有する。
 だが、不可能ではない筈だ。イアンは諦めを美徳に出来なかった。頑張って出来ませんでしたなんて、言い訳に過ぎない。そんな簡単な言葉で、愛しい人を諦めるなんて。イアンも彼女も、許しはしない。
 彼女は、言った。私の分まで幸せになりな、と。悲劇の舞台女優にして、冒険譚の怪物である彼女の一生は重い。その分を背負って生きなければならないのだから、ほんの僅かな弛みだってあってはならない。
 一部の隙もなく。完璧な幸せを、掴まなければならない。義務ではなくとも、責任はあった。彼女を死へと、先導したのはイアンだったから。彼女が彼の人と再会出来たかは、分からない。死後にもまだ世界が続くなら、きっと二人でまた指輪に永遠を口づけるだろう。
 懐にしまって、そのまま。二つで一つの指輪にイアンも誓う。かつて結んだ約束は破れてしまったけれど、代わりに必ず果たそう。
 古いそれは、冷たい感触で存在を示す。壊れないよう慎重に、けれど固く掴んだ。ギドの手を掴む勇気を、貰う。
 イアンは息を止めて、片足を水に浸けた。冷たい。足から天辺まで登る冷気。夜の間に冷やされた水は、半端な光では癒せない。

「来ないで!来ないで、下さい」
「……いいや、行く!俺っちはお前と、一緒に生きたい」
「嘘、です!嘘吐き嘘吐き嘘吐き!!」
「嘘なんかじゃないさ!」

 喉が張り切れても、構わない。僅かでもギドの心に触れられれば、それで良かった。この気持ちに、嘘偽りはない。一辺の濁りもなく、この湖のように澄んでいる。底まで見渡せる純粋さで、イアンはギドを見た。
 怯えるように、震えた身体。脆くて儚いそれを、抱き締めたいと渇望する。冷たい水に晒されて、幾ばく経っただろうか。早く、早く、掬ってやりたかった。
 水が跳ねるのを忘れ、イアンは駆けた。重たく絡みつく水を掻き分け、まとわりつく汚泥を踏みつける。そうして、あと少し。

 ああ、届く。

「触らないで!」

 もはや、絶叫だった。懇願とは違う、燃え盛る感情。ギドに叫ばせるそれは、拒絶とか呼ばれるものだ。
 何故、拒む。救いを求めた唇は、偽装だったのか。見分けられないイアンは、ギドに手を伸ばすことしか出来ない。触れたいからと、ただそれだけだ。

「私は、私は知ってます。……その指輪、だれの?」

 手は、払われた。

 強い力は、ギドの憤怒を教えてくれる。絶望を宿した瞳は、イアンが作った。誓いを示す指輪は、ギドと誓ってはいなかったから。イアンの独り善がりな光沢で、ギドの目に映る。
 声が出ない。違うと弁明した所で、真実に成り得ないのが分かっているからだ。二つで一つの指輪は愛を誓うものであり、ギドのものではない。同時にイアンのものではないが、今はイアンの手にある。外側から見れば当然の推測が、ギドを蝕んだ。

「それは誰の!どうして貴方が、それを持っているの!?」

 言えはしない。本当の持ち主は、既に死んだ。生きていたとしても、ギドを苦しめた張本人であることに変わらない。
 暗い地下に押し込め、身体を作り替えた。ぶよぶよとした触感を、イアンもまだ覚えている。おぞましい行為を、やってのけた彼女だ。それを擁護するなど、裏切りよりも罪深い。
 しかし、切り捨てられない。いまわの際、彼女の瞳は綺麗だった。最期に光を見つけた彼女に、悪役を押しつけられない。罪悪感と同情がせめぎあい、生まれたのは沈黙だ。弁解の言葉など、最初から無かった。

「……」
「嘘吐き!私が、汚いから捨てるんでしょう?貴方も汚いのに、私だけ!」

 暴れる身体。無茶苦茶に踊る手足を、イアンは力なく受け入れる。
 そして、当たった。意図ないギドの腕は、イアンの右手から奪う。衝撃に弛んだ掌から溢れた、指輪。
 小さく、落ちた。波紋すら、静かだ。
 外面は忘れた。失ってはならないものを、落とした。イアンは指輪の軌跡を追う。
 透き通っていた水。今は跡形もなく、汚い。汚泥が舞い、露呈した真実。

 湖は、綺麗じゃなかった。

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