汚れた手で、救おうとしないで
欺瞞に満ちた世界はいらないの


きれいなみずうみ


 陽光に、眩まされる。空から与えられ、水面から与えられ。視線の行き場を失わせる光量だ。
 イアンは、息を吐いた。一面を宝石の輝きが支配し、その中心で彼女は笑っていたから。酷薄な笑みは、ただ責めていた。

「どうして、助けてくれないの?」

 彼女の弁だ。膝まで水に浸かり、寒さに震えているギドは呑気にそう言った。生命を忘れたような囁きは、身震いを誘う。
 その微笑みは、唇だけで行われていた。狂気を見つめるように、大きく開かれたままの瞳。黒色のそれが、喜びに繋がることはない。
 何から救えばいい。理解出来ないままイアンは立ち尽くす。湖の細波が、イアンの靴に触れた。しかし、すぐに離別を知る。僅かな、ほんの僅かなまぐあいを気紛れに残すのみだ。

自分は、何を、躊躇う。

 何故、彼女に駆け寄らない。何故、彼女を慰めない。何故、彼女に触れようとしない。何故、恐れている。

「どうして?」

 再びの問い。身を固くして、色の無い音を聞いた。硬質な絶色は、まだそこにある。
 駄目だ。奥底からの獣の叫びは、そのままイアンの臓腑を揺らした。袋を裏返しにされたような気がして、苦い唾が舌を湿らせる。忠告してくれてありがとう。どうすればいいのか、ついでにご教授して下さい。

「俺っちは、どうすればいいんだ」
「たすけて。たすけて、ここは暗い」

 暗い、とは。太陽は陰りを知らずにいる。湖は濁りを知らず、全身で光を反射している。眩しさを感じこそすれ、闇は一欠片としてない。
 彼女は何を見ている。それとも、何も見えてないのだろうか。
 違う世界にいる。同じ風景の僕となりながら、そんな答が掠めた。脳裏に浮かんだ逃げ道を、イアンは見ないふりしてやり過ごす。現実から逃避して、何になる。今はただ、彼女を救うことだけ考えろ。

「何が暗いんだ?」
「ぜんぶ、です。何もかも暗いじゃないですか!」

 泣くように。あるいは嘆くように、ギドは声を荒げた。一掴みの水が、彼女の叫びと共に踊る。

「皆、みんな、嘘でしかない!本当は汚い嘘吐きばっかり!何もかも…!」
「……そんなことはない」
「嘘よ!嘘よ。だって私の手、こんなに汚れてる」

 それきり。波紋は生まれず、風は止まってしまった。無音の孤独に取り残され、ただ彼女を見つめる。
 彼女は美しかった。女性の曲線を従え、儚さに彩れたその姿。何が汚いのか、分からない。傷一つなく、跡一つなく。
 悲惨な過去はあった。イアンの過失で、ギドは蟲にされていたことがある。しかしそれを思わせる痕跡は、残っていない。

 そう、残っていない。
 見た目は、綺麗なままだ。
 上辺は守れた。
 しかし、その下は。

 ギドを囲う暗闇。光が一部もない部屋から、彼女を救ったのはつい最近。身体だけ救って、勘違いに気付いたのは今だ。
 イアンは己の愚かさを呪った。一時でも異形に作り替え、地下に閉ざされていたのだ。記憶の有る無しは必要ない。雨が大地に呑み込まれるように、恐怖はギドの心に染み込んだだろう。
 奥深く。脳髄のどこよりも深い場所に、恐れは塊となって蓄えられていた。それが今、牙を向いたというだけ。


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