「逃げるって、何から?」

下から見上げる目は、困惑していた。ファントムの疑問も尤もで、ペタ自身ですら己が口走ったことの意味を理解できていない。不用意なことを口走らないように、と普段からの心がけがこれでは無駄になってしまう。

「……すいません。少し、寝惚けていたようです」
「珍しいね。君が寝惚けているなんて」

 深々と礼をして、もう一度謝る。この話題を引き摺るのは、良い結果をもたらさないとペタは知っていた。

「そんなこと言われたのは、アルマ以来だよ」
「…もう、お止め下さい」

 アルマ、その名前は聞きたくなかった。ペタの眉がほんの少し、ひそめられる。
ファントムがアルマを語るとき、何時だって彼は悲しそうに笑う。酷く人間味がするその表情は、ペタの胸を荒らしまわった。
 聞きたくなかった。アルマとファントムの思い出は、安らぎに満ちている。ペタが望まない優しさに、満ちていた。もう既にない、壊れかけた懐かしさにすがるファントムは、どうしても悲しい。

「彼女がそんなことを言ったわけ、分かるよ。だから君が、どうしてそんなことを言ったのかも」
「私と彼女を、一括りにしないで頂きたい」

 先手を打てば、ファントムは笑みを深くした。小馬鹿にされているようで、ペタは感情の処分に困る。

「君とアルマはよく似てる。違うのは、表にだすかださないかだけなんだ」
「そんなことは、ありません」
「君がそう思うなら、別にいいけど」

 不満そうに、ファントムはペタに背を向けた。瞳の色をそのまま薄くしたような、青白い髪と見つめ合っているような気分だ。
 引き留めるという考えは、ペタにはない。ぼんやりとした思考のまま、ファントムの退室を見守った。

「僕は、意見を曲げる気はないよ。君とアルマはよく似ている」

 ファントムは一個だけ空気を吸って、扉を開けた。掠れた音と同時に、ファントムの体は半分部屋から出る。

 「だって君、僕に死んでほしくないんだろ?」

顔は、見えない。
 余韻だけを残して、ファントムの姿は完全に消えた。
 ペタはくらくらと目眩を感じながら、自身が寝台の代わりにした椅子にもう一度腰かけた。じわりと馴染む感触に、ペタは目を閉じる。ファントムに見破られていた恥ずかしさか。妙に重くなる体に、疲れていたことを思い出す。
 ファントムの言葉はそっくり真実で、自覚はしていた。認めたくない、と意思が意地になっているのも知っていた。
 退屈しのぎの道具。一時だけ心を楽しませるための手段。そうであったはずなのに、そう思っていたのに。
 自分の主人が、永久にファントムであって欲しい。自分は永遠に、ファントムに仕えたい。下らないと馬鹿にしていた感情は、今、確かにペタを支配していた。

「死なないで、下さい」




たった一人。世界に憎まれている人が大切だから、世界を殺す





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