死なないで

 ペタはそれまで体を預けていた椅子から立ち上がり、頭を振った。久しぶりに貪った睡眠には、安らぎの代わりに悪夢があった。
 出来るならば、記憶に蓋をして思いだしたくない。忌まわしいだけの、思い出。じわじわと体を蝕む毒のように、心を少しずつ溶かしていく。

ファントムが、死んだ。

 瞼の裏に刻まれた光景は、見たくなくとも繰り返される。無意識に、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も見た。
 崩れ落ちる見慣れた体と一緒に、揺れる紫の頭髪。その時、確かに夢の断末魔を聞いた。
 人が死ぬことは恐怖しか生まないと、知った。こみあげたのは悲しみ。麻痺していた感覚は総毛だち、ファントムが大切な存在であることを教わった。
 死なないで、とは言えなかった。生きて、とは叫べなかった。どうしても。ファントムが大切だと認めれば、弱くなる気がしていた。泣きわめいて、ファントムを繋ぎ止めるなんてできない。

「馬鹿だ」

他でもない、己が。
 どうしようもない。大切なら大切にすればいいだろう。大切なら大切だと言えばいいだろう。理論にすらならない、分かりきった事実を出来ないペタは、もう一度「馬鹿だ」と呟いた。

「それって僕のこと?」

 聞き慣れた声、振り向けば見慣れた顔があった。ペタは、緩慢な動作で椅子から立ち上がる。

「貴方のことではありませんよ」

 神出鬼没なのは、今更。音も気配も、纏わずに現れたファントムに、ペタは驚くことはない。乱れた髪を直しながら、紫の瞳を知らないふりをした。

「知ってる」
「……あまり、からかわないでください」

 無邪気な笑みに、なぜか安心する。これが日常だったのに、一々心を動かしてしまう。まだファントムが、いることに違和感を覚えているからだ。
 早く、慣れなければ。ファントムがいることを、日常にしなければ。
 正体不明の焦りに、ペタはじわりと背中を押された。焦燥する理由は闇夜に沈んだまま、ただ急かされる。
 早く、言わなければ。何をなのかは、分からない。早く、告げなければ。早く、早く。





「逃げましょう、一緒に」












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