ぽつり落ちた滴は涙のように、頬をつたう。 日光ですら、濡れた岩壁に阻まれて届かない洞窟の深部、そこにファントムは彼女といた。 小さい躰をよせあって。触れあわせて、睦言のような時間を過ごしたのは遥か遠く。 決して知られてはいけなかったのに、最期が訪れた。 冷たくなっていく躰に、触れる資格を失ったファントムは湿った岩壁に身をよせる。 灯りがなければ、もののけの咆吼ばかりが木霊する洞窟。大きな叫びが、彼女の魂を呼ぶ。 巣食った魂は、また新たな魂を喰らい、捕える。光の一切みえない岩窟で死んだ人間は、土にも空にも還れなく。 洞窟を彷徨うだけの亡霊は永遠に囚われ、けして出られはしないのだ。地の底から這う、忌み忌みしい叫びは、怨嗟の声にも聞こえた。 世界を回る航海の途中だった彼女。男勝りで、負けん気が強く。そしてだれよりも、海を愛しているといった。 揺れる帆船が目指してるのは、世界の果てだと。深海色の瞳を遠くにあわせ、語りもした。 無理かもしれないけれど。とも、海の境界線を目指しながら呟いた。 その瞳の色がとても綺麗で。ファントムは汚れた両手を伸ばし、彼女に触れる。 口づけた唇はほんの少し、塩辛かった。 +++ 「花…?」 真っ白な花束を片手で抱えたまま、ドアを開けた器用な来訪者。気持ちの分だけ、三角帽子を下に向ける。 挨拶はすましたとばかりに、構うことなく部屋の奥に進むペタ。歩く度に、白い花弁が揺れた。 ペタは窓辺の台に花束を置くと、すぐに周囲を見渡した。それが別の花瓶を探しているのだと、ファントムが気づく頃にやっと目が合った。 「どうして、こんなものを…」 「さあ。女王様が突然貴方に、と」 「…ご機嫌を窺うのも、楽じゃないね」 目線を未だ白い書類に戻し、ひっかくだけのペンをとる。会話が途切れてから、この部屋には紙を金属でひっかける音しかしない。 ファントムが横目で三角の帽子を確認すると、顎に手をあてたまま停止している。目線は白い花に注がれて、微動だにしない。 気難しい彼らしく、顎に手を添え、眉をひそめている。口をきつく結び、それでも目の先に白い花をおいたまま。 何を考えているのか、検討はつく。 「僕は青っぽいのがいいな」 花瓶を決めあぐねているペタに、ささやかな助言を施す。 しかし、三角の帽子は縦にも横にも触れなかった。石か、はたまた氷のように、動かない。 「ペタ…?」 常に礼儀を重んじるペタは、ファントムに意見はしても逆らいはしない。まして、無視など。 不思議にファントムが首を傾げても、ペタは白い花束を見つめるだけだ。 「青が……青にしましょうか」 それだけ。 独り言のように呟くと、花束を孤立させたまま踵を返した。 ありあわせの花瓶には、水が入っていない。 強い日光に晒された花が枯れてしまいそうで、ファントムは首を伸ばした。 既に裂傷を抱えた花は命短く。元より長くは咲けない花をより、儚くした。 それが美しい。 人はいうが、ファントムには理解できなかった。 散ってしまえば、もう咲かない。意味のない。どんなに綺麗な花でも。 人でも。 「すっかり忘れてた。女王様には敵わないなあ」 ペタに花を持ってこさせたのは、嫌がらせか。 喉を唸らせて、小さい笑いを溢しながらファントムは、花瓶に飾られた花を手に。 廊下からの、足音は遠く。ファントムはアンダータを光らせた。 next |