冷血ゾンビと吸血鬼の秘密           


僕だけが知っているペタの秘密。
なんていい響きだろう。その事実を思い浮かべるたびに、嬉しくなってしまうのは単純だろうか。光を一切通さない黒衣をまとい、鉄面皮の下になにもかもを覆い隠した彼の人生に根ざす息苦しいまでに生々しい秘密の一端を握っているのだ。少しだけ残念なのは、彼がそれを打ち明けたのは信頼と親愛に基づいたからではないことだ。
その秘密の維持には僕の協力が必須だった。頻度としては週に一度。司令塔と作戦参謀という立場上、日付が近づいたら僕から声をかけるようにしていた。
しかし埋葬から蘇り、戦争の準備に忙しい日々のせいで、すっかりと忘れていた。気づいたのは切羽詰まった彼の声が室内に木霊してからだった。
「ファントムっ!」
 広い謁見室に行き渡るような声量にことの重大さを悟る。ほとんど声を荒げることのない男の取り乱した姿に、ハロウィンとロコが目を丸くしている。最悪だ。よりにもよって、他人がいるところで発作が起きてしまったのだ。
「どうしたペタよ。そんなに顔色を悪くして。いや、いつも悪かったな」
「……どうやら例の件で異常事態が発生したみたいだね。すまない。少し席を外すよ。スノウ姫と異世界から来た勇者については、また後で報告してくれ」
「あ、っおい、ファントム!」
 呼び止める声も聞かず、ペタの元へと駆け寄る。息が荒くて目が血走っている。限界寸前といったところだ。移動する時間を惜しんで、彼の手をとりアンダータで飛んだ。レスターヴァ城にはディメンションアームの干渉を受けないように、カルデア由来の術がかけられて基本的に移動することはできない。しかしそれでも広い城の全てというわけにはいかず、重要でない場所には術がかかっていないこともあった。
 僕が移動先に選んだのはまさにそんな部屋だった。随分と前から使われずに放置されている地下のがらくた置き場だ。かび臭く埃が充満していて、おまけに薄暗い。大きな木箱が乱雑に積まれた狭い部屋に着くやいなやペタに押し倒された。床に積もった埃が舞うのを目の端で捉えてうんざりする。それでも僕は動かない。正確には動けない。彼の震えた腕が僕の胸倉を掴んで離さないのだ。この尋常ではない怪力も、彼の発作に付随しているのだろうか。
「ファン、トム……どうかっ!」
 歯の根があわないというのに、彼は許可を得るまで動かない。その健気な姿に昂揚する。彼は今、種族としての本能すら抑えこんで忠誠を果たしているのだ。彼の握りこぶしから血が垂れないうちに囁いた。
「いいよ。ペタ。好きなだけ飲みなよ」
そういって首筋を晒せば、即座に彼の牙が皮膚を裂き、深く食い込んだ。顔から一気に血の気が引くのが分かる。血走った目でこちらも見ることもなく、まさに一心不乱に僕の血を啜って離さない。
 ペタは吸血鬼だ。これが彼の秘密である。
僕がこのことを知ったのは、もう十年も前になるだろうか。僕と彼との間で、主従関係以上の感情――つまりは愛情だ――が成立してから間もなくのことだった。冷静沈着を絵に描いたような男である彼が、ある日思いつめたように告白してきたのだ。
「今まで隠していて申し訳ありません。私は人間ではありません。吸血鬼なのです」
 いきなりそんなことをいわれてもすぐに信じることはできなかった。
吸血鬼という存在は僕も知っていた。しかしそれは物語のなかだけで、現実に存在しているのを見たのも知ったのも初めてだった。彼もまた、とうの昔に亡くなった両親以外に同種に会ったことはなく、もしかしたら自分が最後の吸血鬼なのかもしれないといっていた。物語の吸血鬼は、陽に当たれば死に、招かれなければ家に入れず、橋のかかってない川はたとえ小川だろうと渡れない、脆弱な存在であるが、彼には全く当てはまるところがない。姿形も人間と変わらないというのに、ただ一点、人間の生き血を啜るということで彼は吸血鬼となる。もっともそれすらもブラッディスリンジで血を汲み取り、後からこっそりと飲めばいいというのだから、物語の吸血鬼のように闇に紛れて人の首筋から血を啜ることはなかった――本来ならば。
「ん……、ファントム、ファントム」
吸血が終わった彼は陶酔したまま執拗に僕の首に残る牙の後を舐めていた。溶けた瞳は情事のときのように、僕だけを見ている。もうほとんど乾いてしまった血を全て舐めとるまで終わらない。
彼も知らなかった吸血鬼の真実。人間を愛したとき、彼らは愛する者の血を我慢できなくなる。彼が秘密を打ち明けたのも、正体不明の吸血衝動に苦しんだ末のことだった。しかしそれは同時に彼にとって非常に恥ずかしいことでもあったらしい。今でも彼は、決して悟られないように人目を忍んで行動する。僕個人としてはそれほど騒ぎ立てるほどのものかといわれれば首を振るだろう。しかしこの広い世界で、僕ただ一人だけが彼の秘密知っているというのは気分がいい。だから彼の秘密に黙って手を貸していた。
「いい子だね」
 頭を撫でれば猫のように眼を細める。吸血後の多幸感を与えられるのも、僕ただ一人だけだ。普通の、食事としての吸血ではこうはならない。そうやって暫しのあいだ、僕は存分に自身の独占欲を満たすことができる。
ところで、彼の秘密はもう一つある。誰にも、僕にすら打ち明けていない秘密だ。察しているけど。
衝動が収まり、平常を取り戻した彼は立ち上がり着衣の乱れを直してから、深々と頭を下げた。
「お見苦しいところを失礼しました。本日もありがとうございます」
そういう顔はいつもよりずっと青ざめている。
「いいよ。僕も忘れてたし。ところで、大丈夫?」
「……」
 返事がない。頑固だ。僕が折れるしかないのだろうか。全く彼の頑固さと忠誠具合にはため息がでるよ。
「それじゃあ、ハロウィンたちを待たせているからもう行くね」
 挨拶もそこそこに足早に立ち去った。他ならぬペタのためだ。頑なに隠しているが、彼はこのあと僕の血を吐きださなくではならないのだ。彼のせいではない。ゾンビタトゥが全身を覆い、生ける屍になったころから僕の血はとてつもなく不味いものになってしまったのだ。それこそ吐き出さずにはいられないほどに。
 これが彼の、僕にすら隠す秘密だった。
 謁見室に戻ったがハロウィンたちの姿はなかった。驚くことでもない。また呼び出すのも億劫で、玉座でペタのことを考える。可哀想なペタ。僕を愛したばかりに美味しくもない血を飲まなくてはならなくなった。どうにかしてあげたい。つまりなんとかして僕の血を美味しくしたいと思う。僕と普通の人間は何が違うのだろうか。そう考えたとき、真っ先に思い浮かぶのは体温だ。
「温めたら美味しいのかな?」
 冷えた食事と温かい食事、どちらが美味しいと聞かれたら後者を選ぶだろう。吸血鬼にとって食事とは血だ。ならば温かい方がいいだろう。中々いい思いつきだ。
さて問題は方法だ。予め抜き取った血を温めてグラスに注いで渡すわけにはいかない。そうすればペタはたちまち僕が血を温めた理由について思い至ってしまうだろう。なら身体ごと温めるのはどうだろうか。しかし生半可な熱では全く体温のない僕の血を人肌程度にまで温められるとは思わない。
「熱い風呂程度じゃ駄目だよなあ。火、炎……マグマ?」
独りごちてから僕はある人物を呼び出した。
「ファ、ファ、ファントム……本日はご機嫌麗しく」
「そんなに緊張しないで。別にとって食うわけじゃないから」
そういってもポズンは両手を床について土下座のような格好のまま一向に動こうとしない。いきなり呼び出したのがまずかった。彼のような下っ端と僕はほとんど交流をもたないから、普段間に入るはずペタはおらず、最高司令官から直々の呼び出しなんて恐ろしいに違いない。
「本当に大した用じゃないんだ。ただウォーゲーム前に会場の視察をしたくなってね」
「あ、ああ、それでしたら、お安い御用です」
「頼むよ。行き先は火山ステージだ」
 噴火口付近のそこは暑いらしく、ポズンはしきりに袖で額の汗を拭っている。僕はというと体温がないからなのか、暑さや寒さを感じることはない。わざわざ彼を呼び出したのはそのためだ。血が温まったかどうか、彼に判別してもらうのだ。
「ファントム! そちらは、非常に高温で危険です!」
「だからいいんじゃないか」
 制止の声には応じず、マグマが煮えたぎる火口の縁に立つ。昔から疑問だったのだけれど、炎など熱いものの前に立つと空気に圧される感覚がするのはなぜだろうか。単に熱さで身が竦んだだけならば、今の僕がこうして体勢を崩すわけはないだろう。
 体勢を崩す? それってつまり――。
「ファントムっ!!」
 ポズンの絶叫が耳をつんざく。五月蝿いなあ、聞こえているよ。火口に落ちながら僕は、自分の身体が溶けた後のことを考えた。以前は肉体がある墓の下から復活したけれど、全てが燃えてなくなってしまったら、どこから復活すればいいのだろうか。魂か。なら、僕の魂はどこにいくのだろう。故郷か、それとも愛する人のところだろうか。ごめんねペタ。いつも君には迷惑をかける。次はそんなに待たせないようにするよ。そうしてゆるやかに目を閉じたときだった。
「ファントム! 馬鹿なことをっ!」
 宙に浮いた足の下から小石の燃える音を聞いたと思ったら、僕の腕をペタが掴んでいた。彼は額に汗を浮かべながら懸命にボディアイの魔力を溜めている。
「あ、ペタ……どうしてここに?」
「下級のポーン兵があなたにポズンが呼び出されたことを噂していました。念の為に魔力の軌跡を追ってここまで来たのです。そしたらあなたが、あなたがっ……!」
 頬で何かが弾けた。もしも熱を感じることができたなら、きっと温かいのだろう。表情だけがいつもと変わらないのが彼らしい。
「ごめんね。心配かけた。ちょっと火口を覗き込むだけのつもりがうっかり足を滑らせたみたいだ。怒られても仕方ない。ごめん、本当に」
「どうかもう二度とこのようなことはなさらないで下さい」
「うん。分かった。ところでペタ、そろそろボディアイが出せるんじゃないの?」
 彼のガーディアンに連れられて地面に降り立つと、ポズンが土下座していた。可哀想に、僕に呼び出されたときよりも怯えて、地面についた両手が震えて小石が揺れていた。彼の種族としての外見的特徴から顔色は変わっていないことが、却って哀れさを際立たせている。
「あーペタ。彼は僕が無理やりつきあわせただけだし、馬鹿な行動も止めてくれたから責めないでくれないか」
「まだなにもいっていません。こいつが勝手に怯えているだけです」
「そういうところが怯えさせているのさ。ほら顔をあげて、城に戻ろう」
「は、はい……仰せのままに」
 三人で戻ると、ポズンは退出の挨拶もおざなりに脱兎の如く部屋から逃げだした。彼は中々いい部下だけれど、忠誠心に欠けるところがある。ペタに比べてしまえば、どんな人間もそういうことになってしまうけれど。
「それでファントム、どうしてあのようなことを?」
 二人きりになった途端、容赦のない口調で問いつめられた。それは怒りというよりも恐れからでていた。僕の死は、彼に相当応えたのだろう。愛するものを失うというのは何よりも恐ろしいことだ。
「いったよね。戦争前に会場を確認しておきたくて、うっかり足を滑らせたって」
「ならばなぜポズンなのですか? 以前あなたを会場に案内したのは私であったことを忘れたとはいわせませんよ」
「それは……」
 僕の血が不味いせいで君が体調を崩していたから、呼びだすのは気が咎めた。なんてことを馬鹿正直に伝えることができず、返答につまってしまったのをペタは見逃さないだろう。必死で頭を回転させてなんとか言葉を絞りだす。
「それは、あんなことのあとだ。すぐに呼びだすのは気まずかった」
「本当ですか?」
「勿論」
 嘘だ。だけどなんとか平静を装ってペタを真正面から見返す。彼は納得していないようだが、これ以上強く問いつめることなく踵を返した。僕の血で体調を崩している上に、魔力を大量に消費したのだ。辛くないわけがない。心もとない足取りを見送りながら、軽挙妄動だったと反省する。美味しいとまではいかなくても、せめて気分を悪くしない程度の味にしたいのだが、もっと深く考えてから行動するべきだった。温めれば美味しくなるなんて浅はかな考えだ。世の中には冷たいほうが美味しいものだって沢山あるではないか。
 しかしそうなると完全に手詰まりだ。そもそも血の味の優劣をなにが決めるのか僕には全く検討がつかなかった。
 妙案が思いつかないまま一週間が経過した。またペタを苦しませるのだと思うと気が重いが、見境をなくした彼が人前で吸血行為に及んでしまうかもしれないから、無視するわけにもいかない。
耳につけた通信用のアームを起動してペタを呼びだす。
「今どこにいる? すぐに僕の部屋――私室の方に来て」
「畏まりました」
 どうやら彼はまだ平静のようだ。僕は寝台に身体を預けて来訪を待った。無闇矢鱈と柔らかい布団の感触に包まれて、豪奢な天井を見上げているとまるで自分が王族かなにかのように偉大な存在になったような気分になる。本当は僕に自由にできるものはそう多くない。
僕自身と、ペタ。今のところはっきりと所有しているのはたったこれだけ。少ないだろうか。しかしチェスの兵隊はキングのものだし、僕が築いた財産と呼べるようなものはなく、いつでも僕が好きにできるものといったら、本当にこれだけなのだ。チェスの兵隊のみんなも同じようなものだ。僕らは生きるのに、あまりにも何も持っていない。二つあるだけで幸福だ。大切に、大切にする必要がある。
「ファントム、失礼します。遅くなりました。して用事というのは?」
 今日のペタは随分と落ち着いて見えた。もうそろそろ発作がくるというのに、その瞳には少しの焦燥も見てとれない。もっとも彼は感情を隠すのが得意だ。よほどのときでなければ、吸血衝動を表にだすこともない。
「いわなくても分かるだろう。いつもの血だよ。そろそろだろう?」
 そういって首元を晒したというのに彼は動かない。それどころか一歩下がり、深々と頭を下げた。彼の長い髪が肩を滑り落ち、床に影を描いている。
「それは、もう……大丈夫です。有効な対処法を見つけましたので。今までご協力いただき感謝します」
「……そうか。よかった。君がもう、苦しむことはないんだね」
 本心を隠すために苦労しながらも笑顔を作った。彼にもう必要とされない事実が僕を酷く苦しませる。もちろん、実質的な意味で捨てられたということではない。ただ日常のなかで、彼は僕を思う機会がわずかに削られたというだけだ。
「もしも、また血が欲しくなったら、いつでもいってね……待っているから」
 頬に触れられる距離まで近づき手を伸ばした。寂寞が、距離を縮める。いつも僕の喉元を食い破っていた牙の形を確かめるように、口づけて、舌を這わせた。硬い感触が僕の舌を傷つけることはなく、胸が塩辛さを感じる。寂しいなんて身勝手だ。
「ファントム、ファントム……お慕い申し上げます。たとえ吸血という行為がなくても、私たちは、心を通わせていると信じております」
 上手に返答できなかったのは僕の身勝手だ。
 それから一ヶ月、顔を合わせるたびに僕は期待していたが、ペタから吸血行為を求めることはなかった。彼のいう有効な対処法とやらは完璧だったようで、この先食事以外で血を飲むことはないのだろう。つまり僕の血を飲むことはもう二度とないのだ。もっと喜ぶべきだとは思う。彼が僕の血で苦しむことはもうないのだから。だけど僕の満たされない独占欲は、どこまでもわがままにペタを欲している。
「だめだなあ、僕は」
「ど、どうかしましたかファントム?」
 忠実な僕の友だち、ロランが眉をひそめた。ペタとは違った意味で僕に永遠を誓ってくれた彼は、ときおりこうして臆病な面を覗かせる。背丈は伸びたけれどこういうことはまだ拾ったときのような子供のままだ。宥めるように頭を撫でると、気恥ずかしさに紅潮した。子供扱いされたくないのだろうが、いいだせないところが彼らしい。
「ああ、ごめん。なんの話だっけ?」
「はい。あ、あのキャンディスさんがゲイレルル城で見つけたアームの件ですが、どうやらディメンションアームのようでして、それがこの城の結界を破るのではないのかと」
「うーん、なるほど。見せて」
「空間に穴を開けて移動する――効果自体はありふれていますが、空間を破ってしまうので、結界ごと剥がされてしまうようです」
「もしも本当にそんなことができたとしたら厄介だねえ」
 魔力を込めて発動する。行き先は特に結界が念入りに施されている城の最奥部、キングがいる場所の近くだ。しかしアームは正常に作動しなかった。魔力のめぐりには問題ない。もしや、と思って次は謁見室の外に空間をつなげようとするが、思ったとおりこれも発動しない。少しずつ移動距離を縮めて試していくと、かなり近い距離になってようやく発動した。
「効果は強力だけど、移動距離が極端に短い。これじゃあ走って移動した方が早いぐらいだ。問題ないね。この城は浮いているし」
「そ、そうでしたか。申し訳ありません! 結界が破られることばかりが頭にあって、距離までは考えていませんでした」
「責めてないよ。慌てる気持ちは分かる。しかしペタも気づかなかったか」
「それは……」
 不自然な沈黙が僕たちの間に現れた。疑問に思っていると、やがてロランが意を決したように口を開いた。
「ペタさんには話していないんです。どうも今日は街に降りているらしくて。実は今日だけではなく頻繁に」
「なに、それ。僕はなにもきいてないよ」
「はい。秘密にしているそうです。私も偶然知りました」
 ロランの話はこうだ。最初、アッシュが誰にも行き先を告げず城から下の街へ降りるペタを偶然見かけたの。面白がってナイトのうち、彼が気軽に会える相手、つまりロランに話した。それからロランがさりげなくペタの動向を窺うと、約週に一回の頻度でどこかにでかけていることになった。尾行まではしなかったので行先は分からないが、帰ってきたあとは様子が違う。
「なんというか、怖いんですよ。殺気立っているというか」
「そうか。教えてくれてありがとう。あとは僕が直接きくよ」
 なんとなく検討はついていた。復活した直後、ペタに尋ねたことがある。僕がいないあいだ、吸血衝動はどうやりすごしていたのか。ペタはあっさりと人を殺して血を啜っていたと答えた。直接人を襲うことで、わずかに楽になるのだと。もっとも紛れるぐらいの効果で根本的な解決にはならないらしい。
 つまり彼は嘘をついていたということになる。なにが有効な対処法だ。全然、駄目じゃないか。もっとも僕が怒ったのは嘘をつかれたことじゃない。
「そ、それでは失礼します」
 青ざめたロランをきちんと見送ることもなく、ペタを呼び出した。彼はいつもどおり従順に涼しい顔をして僕の前に現れた。それがとても腹立たたしい。
「お呼びですか、ファントム」
「ロランから聞いたよ。君、僕に隠していることがあるだろう」
「なんのことでしょうか」
 また白を切るつもりだ。その澄ました顔は少しも歪まず、僕を真っ直ぐに見返していた。思えば、彼はいつだって秘密を打ち明けようとはしなかった。吸血の件だって必要に迫られたからそうしたまでだ。
「そうか、ならこれは要らない?」
 指先を噛み、血を垂らすと、明らかに彼の眼の色が変わった。我慢しているだけで、本当はこの血が欲しくてたまらないのだろう。見慣れた鋭い目つきに、僕は微笑みかけて距離をつめる。
「おやめ下さいファントム……すぐに、傷を治して」
「必要ないよ、僕は不死だ。この程度の傷、舐めれば治るさ」
後退った彼を壁際まで追い詰める。焦点の合わない瞳の前に血を掲げれば石像のように動かなくなった。彼の牙が獲物を求めて姿を現した。僕はすかさず指を口に捩じ込んだ。もうそれで、彼は逆らえない。
「っ!」
 容赦なく指を噛み、血を啜る。そのうち、足りなくなったのか、襟首を掴んで僕を床に押し倒し、首元に噛みついた。普段よりも勢いよく血を吸われて視界が暗くなるが失神することなかった。やることもなく、彼の髪を手で梳きながら満足するのを待った。
「ファントム、申し訳ありません……!」
 やがて血を堪能した彼が正気に戻ると、面白いくらいに動揺が見てとれた。だけど許さない。僕は怒っているんだ。
「それはなんに対しての謝罪? 血を吸い過ぎたこと、それとも僕に嘘をついたこと?」
 冷めた目で、片膝をつき頭を垂れた彼を見下ろす。綺麗な長い髪が床にこぼれて毛先が円を描いた。
「申し訳ありません。私は、嘘をついておりました」
「じゃあ、やっぱり街に降りて人を襲っていたんだね」
「はい。申し訳ありません。命令もないままに、このようなことを。私自らチェスの兵隊の規律を乱してしまいました」
「規律なんてどうでもいい。家畜のような人間どもだって、君の糧になるなら命に価値があったってものさ。僕が怒っているのはそんなことじゃない。分からないかな」
 ペタの髪を掴んで感情のまま乱暴に引き上げる。彼は痛みで歯を喰いしばったから、牙がよく見える。鋭い牙。僕の皮膚を裂き、血管に突きたてられた刃。僕だけに使われるもの。それを突きたてられた人間がいる。おそらく死体だったのだろうが、関係ない。これは僕だけに使われるべきものなのだ。彼の全てである、この僕が。
 僕が死んでいるときはまだいい。悔しいが仕方がないと諦めもつく。だけど、僕がいるときは我慢ならない。嫉妬しているのだ。見ず知らずの、もう死んでいる人間に。そして容易く僕のための牙を他人に使うペタに怒りを覚える。
 もう一度、彼の口に手を入れた。苦悶するペタのことを無視して、僕は満足するまで牙に愛撫した。他の歯よりも大きく、硬いそれの形をなぞる。
「いいか。この牙は僕のものだ。もう二度と僕が生きているあいだに、これを他の人間に使うな」
 返事ができない彼は目尻に生理的な涙を浮かべながら頷いた。その顔は苦しさばかりだった先程までとは違う。喜んでいる。
「君も大概だな。酷いことをした。すまないね」
「っ……いえ。此度のことは全て私が招いたこと。ファントム、実は私はもう一つ、あなたに隠していた、ことが」
 苦しそうな吐息は、なにも僕がしいた無体のためだけではないだろう。怒りに身を任せていて、すっかり忘れていたけれど、彼は僕の不味い血を飲んだ直後だ。
「ここで吐く? 移動する?」
「移動、します」
 移動した先でペタは気の毒になるほど苦しそうにしていた。まだ人間だったころ、腐った食べ物にあたったことがあるけど、ペタの苦しみ方はそれ以上だ。背中をさすると少しだけ楽になるようで、彼が胃を空にするまで僕はずっとそうしていた。
「落ち着いたみたいだね」
「ありがとうございます。そして申し訳ありません。折角ファントムにいただいたものを、全て。あなたの血肉を残ったというのに」
「いいよ。そんなことを」
「しかしっ! あなたを損なってまで、手に入れたものを、私は無為にしているのです。そんな罪深いこと、許されるはずもない!」
 普通の生き物は血液を全て失えば確実に死ぬが、僕に限ってそれはない。つまり、血液は僕にとって不要なものだ。損なったなんて大仰な言葉を使ってまで大切にする必要はどこにもない。しかしペタには僕の血はどんな希少なアームよりも価値があるように思えてならない。だから、きっとそれを飲み込めない自分を恥じて、秘密にしたのだ。
「ばかだな……僕は君に辛い思いしてほしくない。それだけだ」
「ですがそのせいであなたに負担をかけてしまっています。火山に落ちたのも、おそらく私が血を飲んだことで貧血になってバランスを崩したのかと」
「それは違うよ! いや、そうかもしれないけど、不用意に火口に立った僕が悪いんだ……いいや、このさいだからはっきりいおう。君が僕の血を飲み込めないこと、なんとなく分かっていたんだ。だから血を美味しくしようとして、温めようとしたんだ。軽率なことをして、君を不安にさせたね」
 ペタが頭を振り僕の両手を包んだ。感じるはずのない温もりに目を見開く。これが生きているということだ。
「全ては私が招いたこと。しかし、お許し下さい。私はあなたに傷を負わせることを分かっていながら、離れることだけはできません。あなたの身を危険に晒すというのに、どうしても、それだけはできないのです。だから私の苦痛など意に介さないで下さい。それがせめてもの贖罪となるのです」
「それなら僕だって同じだ。君がどれだけ僕の血で苦しもうと、僕は君に僕以外の血を飲んでほしくない。身勝手なのは一緒だ。ねえ、ペタ、僕たちはもう離れられないんだ。だから、せいぜい、苦楽をともにしようじゃないか」
 顎を引き寄せて口づけると、ペタはこの上なく嬉しそうに目を細めた。そんな彼は僕だけのものだった。ずっとこれが欲しくてたまらなかった。彼の全てを所有してなお、それを常に実感していたい。我儘だろうか。しかし彼もそれを望んでいるのだから、もうどうしようもない。離れることはできない。
 それから、ペタは僕に秘密を作ることはなかった。僕だけには、全てを曝けだす。ああ、なんていい響きなんだろう。


                            終わり
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