彼のその横顔を美しいと思いながらも触れることができなかった日を、ペタは今でも思い出す。
 瞬きのひとつひとつが鮮烈な日々だった。夏の木漏れ日のように、全てが輝きをはなち脈動のひとかけらとなる美しさ。この世の、彼以外の全てと引き換えにしても惜しくないような、胸の内に流れる輪郭のひとつひとつが魂に歓びを与えるような、美しい記憶をペタはもっていた。
 あの素晴らしい彼を、独り占めにしていた時期があったのだ。幼少時、彼が投獄されるまでのわずかなあいだであるが、彼の友人はペタしかおらず、その逆もしかり。そういう時期があったのだ。ペタはその記憶をことあるごとに掘り起こし、その度に少しも損なわれていないことに感謝し、再び大切に胸の奥に仕舞う。もはやペタ以外に誰ももっていない宝物だ。ファントム本人すらも忘れていると知ったとき、ペタの胸に吹き込んだ感情は失望でも切なさでもなく歓喜だった。これで正真正銘、彼の人生の一部を独り占めにしたのだから。
 彼は素晴らしい。かつてそれを知るのは彼の両親とペタだけだったが、キングに知られ、クイーンに知られ、世界中の人々が知るところになってしまった。あれほどの光輝なのだ、隠しとおせるはずもない。しかし、喜ばしいはずなのに彼の周囲に人が増えていくのを見ていると、ときどき妙な居心地の悪さを感じてしまう。そういうときは封を解いて宝物を覗いて気を落ち着かせるのだけれど、今日はそれだけでは済まなかった。
 あの子供、ロラン。彼が拾ってきた小さな子。永遠を約束された子。あの無垢な瞳に捉えられたときにペタはなんだかたまらなくなってしまった。
 嫉妬しているのだろうか、あんな幼い子供に。
 ロランと会った瞬間の、えも言われぬ感覚はペタの脳裏にへばりついていた。ファントムに手を引かれ、おずおずと姿を現したロランはたどたどしく挨拶を述べた。何もおかしいところはない。ペタが虚礼で返すと、ファントムはことなげに告げたのだった。

「彼もトモダチなんだから、仲良くしてね」

 トモダチ。その言葉がどれだけの意味をもつのか、ファントム自身も知りえないだろう。ただそれを聞いたペタは目の前が真白になった。倒れこみそうになるのを何とかこらえて、何事か理由をつけて早々に立ち去り、その足で、彼にも何も告げず、住処とする城を離れ、遠い異国まで一息で飛んできてしまった。あまりにも短絡的な行動を、何よりペタ自身が信じられない気持ちでいた。
 突発的な行動だったが、行き先に選んだのはかつて彼とともに滅ぼした思い出のある国だった。度し難いほど美しい国だった。虹色に輝く湖を国土の大半を占め、硝子の森では宝石の実がたわわに実る、輝きと美しさに満ちた国だった。人民も幸福に暮らして政治も安定した絵に描いたような理想郷を彼とペタは徹底的に破壊しつくした。建物という建物を壊し、道は歩けないほどに夷隆させ、人という人を殺しつくし、美しい自然だけを後に残した。
 そんななかで彼がひとつだけ残した建物がある。素朴な石造りの小さな水車小屋だ。彼がカルデアで済んでいた家に少しだけ似ていた。
 小屋のなかから見える川も虹色に輝いている。せせらぎの柔らかな響きと水車の回る重たい音だけがペタの耳に届く。美しい国ではあるが、その美しさはあまりにも生命を拒絶する。虹色の水は猛毒で魚を放せばすぐに泡を吐いて底に沈み、ほとりには草木も生えない有様である。宝石の実は見た目通りの硬さで砕くには金槌でも難しかった。おおよそ人間以外には住めない地だったのだ。人間だけが、欲深き人間だけが、それらを金銭にかえて生き延びていた。
 彼はそれが許せなかった。その傲慢さを憎み、呪い、怨嗟を呟き、憤怒のままに国民を殺し続けた。悪鬼さながらの後姿を追いながら、ペタは彼を美しいと思った。火の粉をまとい返り血に染まり、悠然と歩く姿に見惚れていた。
 彼は素晴らしい。ペタに人間の良し悪しは分からぬ。ペタに分かるのは、彼が素晴らしいということだけだ。それ以外の人間は全て等しく醜悪だった。だから、彼だけがいればそれでよかった。彼の幸福が即ち自身の幸福でならなければならない。
 帰ろう。つまらない感情に振り回されてはならない。彼の自由を妨げるようなみっともないまねをしてはならないのだ。そう決意したところで、魔力による空間の揺らぎを感じて、ペタは立ち上がった。はずみで椅子が倒れる音が静寂を一瞬切り裂くが、すぐに消え去る。
 ファントムが身を現したときには、互いの息遣いすら伝わるほどの静けさにあった。
 彼の表情は硬い。何を考えているのか読み取れずにペタは困ってしまった。自身のしでかしたことの大きさに今更気づいたのだ。彼の不興を買うというさことはつまり、ペタにとっての死だった。ペタの世界には彼だけが必要で、彼に拒絶されたのならばそれはもはや世界から弾かれたと同じ。死ぬしかない。

「ペタ」
「はい」
「君は、怒っているのか? 僕が勝手をしたから」
「そんな畏れおおいこと。ただ私は……わたし、は」

 ペタはどうにも上手く言葉にできず、困ってしまった。なぜ飛び出してきたのかが、自身でも漠として知れない。嫉妬とはまた違う、胸を包み、苦しませる膜の正体が分からなかった。

「僕のこと、嫌いになった?」
「そんな日は永劫訪れません。ただ、なぜあなたの元を離れてしまったのか、分かりません」
「分からないのか」
「はい。申し訳ありません」

 こうべを垂れると彼は満足げに笑った。そのままペタの髪をひとすじ掬い上げると、彼の唇がそれを捉えた。それだけでペタなたまらなくなり頬を赤く染める。彼の指先が今度はペタの血色のいい頬に触れる。流れ落ちる雫のように嫋やかに皮膚を滑り落ちる指先。このままこの悦楽に耽溺してしまいたかったが、彼が早々に指を引っ込めてしまったために叶わない。

「よかった。君は僕のことが嫌いになったわけじゃないんだね」

 そう呟くファントムの瞳はどんな風に揺らいでいるのだろう。
 ペタは瞑目して考える。そうして、自身の感情の意味を知った。ファントムが恐れていたようにペタもまたファントムに厭われることを恐れていたのだ。あの子供がいることで、自身が用済みになってしまったのかと恐れていた。なんと愚かで浅ましいことか。彼の気持ちを縛るようなことを考えてしまったことに恥じ入る。

「ファントム、私はあなたをお慕いしています。永遠に」
「僕も、君を失ったらきっと息もできない」

 ともなく二人は口づけを交わした。
 ペタは思う。かつては焦がれるだけで決して触れられなかったというのに、今は、彼に求められ、触れ合うとこができる。その感触を、芳香を、音を、色を、輪郭を、温度を、忘れることはないだろう。彼の約束した永遠の果てまで持っていくのだ。
 それはきっと、記憶のなかみそのものよりも素晴らしいことだろう。






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