*後ろ姿に手を振った

 ほとんど器の底まで透けて見えることにアルヴィスは驚いた。これでは白湯だ。対面に座すロランを見やると彼は平然とそれを啜っている。覚悟を決めていざ口を近づけると爽やかな香りが鼻腔を抜けた。摘んだばかりの花から淹れた茶は、澄んだ見た目以上に清新な飲み心地だった。

「美味しいな」

 アルヴィスの本心からの言葉だった。隣で胡乱な表情をしていたベルはわずかに安心したとみえて、彼女は身の丈ほどの茶器から小さな匙で器用に茶を掬い始めた。陶器のぶつかる音が響き、芳醇な香りがアルヴィスに再び届いた。
 静寂と花の香りで満ちたこの家は森の奥深くにあった。客人として招かれなければ、おそらく家主であるロランと再会するのは不可能だったであろう。周囲に特殊なARMで結界を張っていて、外部から他のARMの干渉を受けなくしているそうだ。
骨董品の壁時計が一定の時を刻んでいる。それというのに、人も物も時間の概念を失って蕩けている。俗世から切り離された異世界にあるかのような心地に、アルヴィスもまた取り込まれていた。全てが凪ぎ、変化のない静けさ。
たった一人のこの家で、しかしロランは笑っている。

「この花、乾燥させてから飲んでも美味しいんですけど、摘みたての味は格別ですね。蜂蜜は入れますか?」
「俺は結構。ベルはどうする?」
「いらない」

 甘味好きの妖精にしては硬質な応えだった。強張ったその身をほぐすにはもう少し時間が必要なようだ。小さなその身の彼女には、敵対者の脅威は想像以上なのだろう。もっとも家の主、ロランと争ってからは一年以上経っている。元来チェスの兵隊においても温厚な彼は戦火から身を離せば、市井の誰よりも平和が似合っていた。そんな彼が一体どうしてファントムに心酔し、人を殺し、戦争に身を投じたのかアルヴィスは断片的にしかしらない。
 何も分からないことばかりだ。戦いに身を投じていた頃はそれでよかった。考える間もなく脅威は襲いくる上に、彼らの主張は一方的で対話の余地はなかった。それらを退けた今、戦地には何も残されていない。空っぽだった。胸を覆う空虚さの答えを知りたくて、アルヴィスは戦争の原因を探していた。多くの人間がチェスに参加して世界の変革を望んだ理由が、戦いの中にはなかったのだ。

「招いてもらってよかったよ。いろいろと話したいことがあったからな」
「そうですか。よかった。ご迷惑ではなかったようで」

 彼に戦争は似つかわしくない。
 荒事も知らない無垢な微笑みの度にアルヴィスの胸は絞めつけられた。クラヴィーア城で血を吐くようにアルヴィスに攻撃を加えたあの心情を知らないままでは生きてはいけない。

「突然、招待状が届いたときは驚いたよ……俺もお前のことを噂で聞いていて気になっていから」
「噂? なにかありましたか?」
「心当たりがないのか。ほら、元チェスの面々を助けてやっているだろ」
「ああ、噂になっていましたか……」

 ロランお茶を啜るとともに続く言葉まで呑みこんだ。曖昧な笑みを浮かべて、やんわりと話題を断ち切ろうとしている。自身の功績を讃えられることには慣れていないのか、それとも別の理由があるのか。アルヴィスは深追いすることはなく、ロラン同様に茶の続きを楽しんだ。
 また花の匂い。優しい芳香だ。幸せを体現しているかのようで、どことなく悲しい。美しく優しいものに囲まれてはいても、結局それは孤独という海に投げられた花束のようなものだ。千切れながら深くまで沈んでいく花々は一時の安らぎになっても、いずれは消え失せる。その場しのぎでしかない。
もどかしい。助けてやりたいと傲慢な思いを抱くだけで、解決はできない。誤魔化すように乱暴な手つきで熱いお茶を一気に飲み干した。勢いよく鳴った食器に、傍らの妖精が身を固くした。アルヴィスは慌てて笑顔を取り繕う。もっとも虚飾であることは全員が分かっていた。
 アルヴィスが苛立つのは、世界も同様の状況にあるからだった。
 世界は戦争から平和を取り戻した。壊れた町を復興する人々は希望を抱いて明るい。しかしつまるところ悲しみを忘れているだけで、いずれは喪失の傷と向き合うことになる。同時に、敵への憎しみもまた強くなるだろう。恨みは血を呼び、淀みが溜まっていけば戦争になり、また恨みが生まれる。一度灯された戦禍は燻ぶることはあっても、消えることはないのかもしれない。永遠に。
 ふと、妖精の影が狭まった視界を覆う。いつの間にか移動していたベルの小さな手が眉間に触れた。彼女は口を尖らせて「アルの顔こわーい」と言った。いつの間にか皺がよっていた眉間を、優しく均される。

「ありがとう、ベル」
「お二人は仲がよろしいのですね」

 ベルは答えることなく、定位置のアルヴィスの肩へと戻っていった。普段通りを演じてみても、まだロランに啖呵を切るほどの勇気はなかった。アルヴィスはベルの気遣いに対して再度、感謝を口にした。

「……本当は誰にも知られないようにしていたんです」

 ロランは小さく呟いた。それが先程の会話の内容であると気づくまでにはやや時間がかかった。語りたがっていないように感じた印象は、今も拭えないからだ。

「私という存在はそれだけで恐怖を煽りますから……」

 苦々しく吐き出された。アルヴィスは苦悩するロランを瞳にしまい、考えた。仮にロランが世界のどこかで以前のような破壊行為を始めたとする。そのとき、どれだけ早くアルヴィスや他のメルの人間が駆けつけようとも、町の一つや二つは無事では済まないだろう。本気になったロランを止められる人間は世界には数えられるほどしかいない。世界中の人間がそれを知っているから、誰もが彼を恐れる。たとえ慈善を成そうとも、存在と活動が知られるだけで人々は畏怖する。
ロランの言っていることは悲しいぐらい真実だった。

「それでも、助けているんだろう。ありがとう。俺たちもできる限りのことをしているが、中々警戒されてしまって上手くいかないんだ」
「少しでも力になれていればいいですけど」
「なっているさ」

 慰めのようでいて虚しい。ロランの行いは確かに元チェスの人間を助けている。彼は弾圧される元同胞に一時的に民衆から逃し食事を与え、今後の生き方を問いた。故郷のあるものは帰るように諭し、ないものには居場所を作るように仮面を捨てるように説得する。危機に瀕していた面々が命を繋ぎ、平和な世界でも足元を固めることができた。
しかしやはりロランそのものが恐れとなっているのも事実だ。アルヴィスが耳にしたのは噂のなかには悪意にまみれたものもあった。元チェスが民衆に紛れて戦争の機を窺っていると、クロスガードですら言葉にしていたのだ。
 ふとロランの細められた瞳に気づく。海のような美しさだった。

「優しいんですね」
「……そんな風に言われたのは初めだ」

 アルヴィスは茶を飲もうと持ち上げた器の軽さに驚いた。そういえば先ほど飲み干したばかりだった。ロランは何も聞かず微笑んで、茶のおかわりを勧める。有り難く受けながらアルヴィスは考える。
 優しい、とはロランのことをいうのだろう。彼の殺意はクラヴィーアの城でのあの瞬間にしか感じたことがなかった。それすらも刹那に消え去り、あとにはアルヴィスの身を案じる、泣きそうな顔だけが残った。ロランの殺したくないという言葉。彼は敵すらも上手に憎めないのだ。
 アルヴィスは違う。ファントムを始めとするチェスの人間への怨恨を募らせた。最終的に道を違わないでいられたのはベルとギンタの存在があったからだ。彼女の優しき切望と彼の純粋な願いがなければ、アルヴィスはどこかでロランすらも殺めていた。

「ベルはもっと前から知ってたもん。アルは世界で一番かっこよくて、優しいって。いつも言ってるのにアルってば全然聞いてないんだから!」

 むくれた妖精がひらひらと顔周りを飛ぶ。無邪気に怒る彼女を撫でて、ひとまず機嫌取りだ。「誤摩化されないんだから」と呟く顔はそれでも嬉しそうだった。

「お二人は本当に仲がよろしいんですね」
「まあな」

 アルヴィスの肯定にベルの動きが止まった。顔を真っ赤にした彼女は、恐れではなく照れから、再びアルヴィスの肩に戻った。妖精一人分、この温もりのある重みを負担に思ったことはない。ともすれば闘争で解決を図る身には必要な枷だった。アルヴィスを人としてあるべき範囲におさめてくれるのだ。
 アルヴィスはお茶を啜った。優しい、豊かな生命の香りが鼻腔を抜ける。本当に、なんて優しいのだろうか。あまりの暖かさに泣いてしまいたくなる。

「私にはそんな風に寄り添ってくれる人はいませんでした。でも、憧れて、愛した人はいました。そして、今もその人のことを忘れることはできません。失望しますか? 償う、という気持ちを持てない私に」

 哀切の海はまだ濡れてはいなかった。光をたたえ、揺らめくばかりだ。忘れもしない、初めてロランに会ったときと同じ瞳の色だ。
今も思い出せる。道の真中で呆然と立ち尽くす子供の様。人を殺めて、手を血に染めたロランは紛れもなく泣いていた。ファントムという人間を愛しながら、誰も傷つけたくないというロランの矛盾にあのとき気付くべきだった。仲間を殺された怒りに身を任せて、敵を憎んでは何も変わらない。戦争を、憎しみをなくしたいというのなら助けるべきだった。
ひどく難しいことだ。大切な誰かを理不尽に亡くした悲しみを、奪われた怒りを、収めて相手に向き合うなんて誰にでもできることではない。
 ダンナなら、という言葉は甘えだ。アルヴィスがロランにとっての救いになるべきだった。そしてそれは今も変わらない。

「失望なんてしないさ。お前のファントムに救われたという過去も、それから歩んできた道も、大切なんだろう。チェスのしたことは許されることではない。けれど、だからといって突き放してしまえばそれで終わりだ。今度は誰も傷つけなないで、それでも誰かを救える方法を、一緒に考えよう」
「……卑怯ですよ、そんな言い方」
「俺は優しくはないからな」
「いいえ。本当に優しいです。……ありがとう」

 一滴の雫が、器の茶を揺らした。何もかもを孕んだ一滴だ。








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