君の全てを信じてる


 ロランの胸には不安の一滴が垂らされていた。じわじわと広がる不快と、喉をせり上がる得体のしれないもの。朝の目覚めのよさが嘘に思えるような、重苦しい気分だった。静寂という薄布に包まれた城の廊下を、何者かに背を押されて進んだ。歩調は緩められず、さりとてあてもない。ただ漠然とした不安の海に流されているのだ。
 これの始まりはどこであったか。ロランは今朝という過去を掘り返した。夢見や体調といったものには何ら問題のなかったように思える。平常通り、夢は見ずに定刻に起きられた。身支度を整え、朝食のために食堂を目指し歩いていた頃、急激に不安が襲ったのだ。
 丁度、そう、中庭の見渡せる大きな窓がついた辺りからだ。窓からは美しい薔薇の大輪が顔を覗かせていたが、それは三日ほど前に開花したもので、奇妙さの原因にはならない。手入れをしていたヴィーザルが直々に話に来た上、中庭に連れていかれたのだから見たこともある。やれ、この品種は咲かせるのが大変だとか、やれARMの力を使っては意味がないとか、長々と熱弁されたのだから忘れるはずもない。
 それでは何が原因なのだろうか。最初は気のせいとすましていたが、喉になにかつかえたかのような、居心地の悪さは段々とひどくなっていった。しかし原因が全く掴めず、何をどうすればいいのか、ロランには皆目検討もつかなかった。
 念のためと辺りの魔力を探ってみたが、知った気配しか捉えられなかった。例えば斜め後ろ、ロランの通ってきた廊下近くにいるアッシュと彼の子供。前から近づいてくるのはガリアンだ。他にも何人か気配を感じるが、全てナイト級のもの、つまりは顔見知りだ。何の成果もあげられず、ロランはがっくりと肩を落とした。城の中でも最もファントムに近い箇所で、そうそう侵入者がいるはずもない。それでも少しは期待してしまっているあたり、相当この不安が強いのだろう。

「ひどい顔だな」

 随分な挨拶だ。出会い頭にガリアンに言われ、ロランはぎこちなく笑うしかできなかった。普段はすれ違いざまに挨拶どころか、こちらを見ることのないガリアンが言うぐらいだ。相当ひどいのだろう。

「そう見えます?」
「ああ、幽霊でも見てきた顔だ」
「幽霊でも見たい気分ですよ」

 少なくとも、原因がはっきりしているという点ではその方がましだ。何か恐怖を抱かせるものに出会って、恐ろしく思うというのは筋が通っている。明快だ。もやもやとしていて正体が見えないこれは、祓う術など遠い話なのだから。

「ガリアンさんは、何か、妙な感じがしませんか?」
「いいや」
「そうですか……」

 ならばこれは全く個人のもつ感想なのだろう。ほんの少し道筋が見えたとはいえ、まだまだ霧の中だ。
 ロランは 不意に視線を感じた。ガリアンに穴の空くほど見つめられている。彼の双眸はいつでも布の下にあったけれど、不思議と見られている感覚は伝わるのだ。

「いや、あった。あったぞ」
独り言のような声量だ。
「そうだ……先ほど、ハロウィンに会った。それで、キメラと手合わせするのだと」
「そんなの、いつものことじゃないですか」
「いや、違う。ハロウィンはそう行って、外でもない。城の奥……そう、大広間に向かったのだ。ハロウィンとキメラがやりあうのに、そこでは城が跡形も残らないではないか!」

 ガリアンは言い終わらない内に駆け出していた。ロランも同じようなものだった。まだ魔力が十分に練られずにいるなら、被害はさして大規模にならないはずだ。なんとか戦闘が本格化する前に、止めなければならない。
 お互いに肉体強化のARMは使っていない。しかしそれでも並の鍛え方をしていないから、大広間まではそう時間がかからなかった。大広間が同じ階にあり比較的近場にあったことも幸運であった。意匠をこらした厚い扉をくぐりながら、轟音のないことに僅かばかり安堵する。しかしよく知る緊張感は熱気のように部屋に充満していた。多数の人間をもてなすための部屋は、たった二人のためにその意味を変えられる寸前なのだ。まだハロウィンとキメラが牽制しあっているだけにも関わらず、大広間にあった静謐な空気は無残にも引き裂かれていた。
 二人はまだ本気ではない。息を切らした乱入者を見る余裕もある。鍔迫り合いの格好になっていた二人は同時に後方へと飛んだ。円い縁をした部屋の入り口にロランとガリアン、少し離れた中央で距離をとって睨みあうハロウィンとキメラという構図だ。
間に合った。そう思った心をロランはただちに律した。もう始まった戦闘を治めるのは、走っている馬を止めることよりも困難だ。まして暴れ馬ならぬ戦闘狂の二人が相手なのだ。

「お二人とも、ARMをしまって下さい!城を壊す気ですか!」
「なんだよ、そんなことか。なら言ってやるよ。関係ないやつはすっこんでろ」

 ハロウィンが嘲笑した。挑発しているのだとロランは奥歯を噛んだ。無条件に矛を納めるような男ではないのは、短くない付き合いで把握している。キメラは今一つなにを考えているか捉えどころのない男ではあるが、殺気だっている姿は一筋縄でいかないことを伝えている。ガリアンを横目で確認すれば、挑発に乗るまいとしながら片手は剣にかかっている。どうも皆、血の気が多くていけない。

「関係はあります。ここは、ファントムの大切な根城。もし何かあったなら、彼もただでは済まさないと思いますよ」
「ヒュハハハハハ……尚更いいね。あんな化け物と殺れるなんて」

 不快でいびつな笑だ。ロランは唾を飲み込み、眼前の怪物を退治する方法に考えを巡らせた。このままではナイト四人の乱闘になりかねない。被害を拡大させては本末転倒だ。

「駄目です。力づくでも止めさせていただきますよ」
「ロラン、それでは」

 ガリアンが小声で囁いた。言いたいことは分かる。このままでは、ハロウィンの思う壺だと。 確かに怒りに身を任せてしまえばそうだろうが、ロランは今、冷静だった。

「ガリアンさん……少し、時間を稼いでください」

 返事はなかったが、小さく頷く動作が視界の隅に入った。
危うい賭けである。しかしそれ以外にいい方策も思いつかない。生唾を呑み込み、急速に魔力を練り始める。

「なんだ!やる気か!」

 気色混じりの声にすら魔力の気配を感じた。無言のキメラもまた、その影に魔力を忍ばせている。黒く、陰湿な魔力は、それだけで胸を締め付ける害悪だ。ロランは奥歯を噛み、じっと耐えながら二人を睨みつけた。
 最初に動いたのはガリアンだった。彼はマジックロープを素早く発動させ、縄をうねらせた。拘束に特化したARMを切り裂くにはそれなりの火力が必要である。ハロウィンはそれを焼き切り、力を誇示したいのだろう。相当量の魔力を練り始めた。一方キメラは静かにハロウィンの姿だけを見つめている。ハロウィンがマジックロープを壊す瞬間を狙っているのだ。
 どれほど時間が経っただろうか。もう既に喉は乾ききっており、空気を飲み込むように喉がなった。早く、早く、と居るはずのない神に祈った頃だった。
空間が闇に支配されたのは間も無くだった。壁と床と天井を墨で塗ったかのような、不自然な闇には呆気にとられる三人が浮かんで見えた。ロランは急速に衰える己の魔力を感じて、ようやく胸を撫で下ろした。

「ちょっと君たち、何やってるのさ」

 軽い口調ではあるが、確実に怒りを孕んでいた。当然だ。彼にとって命よりも大切な息子が近くにいるのだから。

「来てくれると思ってましたよ、アッシュさん」

 顔の筋肉が弛緩しているのが分かる。笑みにしてはだらしがない表情だろうが、緊張の糸が途切れた今ではひきしめることもできない。憤慨していたアッシュはロランの微笑みで悟ったのか、頭を掻いていた。上手くのせられてしまったことへの照れ隠しだ。

「ロラン……てめぇ、わざと魔力を放出してたな」

 ハロウィンの憎々しげな声が響いた。しかし先程と比べて明らかに覇気がない。アッシュのARMは彼以外の全ての魔力を半分にしてしまう。魔力がなければいかにこの二人といえども、大それたことはできない。ロランたちは賭けに勝ったのだ。

「そんなところです。アッシュさんたちがいるのは分かってましたから」
「意外と策士なのだな。見直したぞ」
「なんでもいいからさ、早くARMしまってよ」
「……」

 最初に立ち去ったのはキメラだった。言葉を発しない彼の思惑は分からないが、大方この茶番に付き合う気はもうないのだろう。やけに小さく見える背中を見送り、完全に脅威が去ったのが分かった。

「むかつく顔だ」

 次にハロウィンが去ろうとする。しかしその姿を止めようとしたのは、意外にもガリアンであった。

「待て。一つ聞きたいことがある」
「なんだよ。口ばかりの戦闘狂さん」
「挑発にはのらない。それより、なぜ城の中なのだ? 修練の門か、外であればこんな風に止められることはなかっただろう」
「そんなの簡単だ。やってみたかったからだよ。後はロランの言った通り、ファントムとやる機会が出来るかもしれないと思ったからな」

 単純かつ愚かな回答にロランは脱力した。仮面と同じ野菜が中身にもつまっているのだろうか、あまりにも考えなしだ。まさか理由がないなんて。

「ハロウィンさん……あなた、ひょっとして」
「馬鹿じゃないの?」

 寸でのところで止めた台詞の続きはアッシュが言った。ガリアンを見れば、彼も同じことを言いたいようだった。戦闘に関しても単純な火力を好むハロウィンだが、それは実生活でも同じであったようだ。
 直接的な物言いにハロウィンは気分を害した様子もなかった。むしろどことなく嬉しそうだから理解できない。

「馬鹿じゃなきゃ強くはなれないね。それに一応許可はとってあるんだぜ。まあ、お前らにそれを言ってもどうせ止めるんだろうがな」

 寒気がロランを襲った。
 
 ハロウィンは曲がりなりにもナイトの一員だ。実力も確かなもので、彼に許可を下すことができる地位は限られている。しかしその極少数のなかで、こんな蒙昧な判断を下す人間に心当たりはない。
 嫌な予感がする。しかしロランは聞かずにはいられなかった。

「ま、ま、待って下さい! 許可って、だ、誰に許可されたんですか!?」
「誰って、ペタに決まってるだろ」

 ハロウィンはことなげにも言ってのけた。その言葉にどれ程の重みがあるか、知らないようだった。
 ハロウィンは尚も続ける。

「六年前に下のやつらを鍛えてやろうとして殺しかけたこと以来だ。めんどくさいことに俺は訓練も喧嘩も、外出すらあいつに届けなきゃならねえ。だがしかし、潜伏中に俺が退屈しないよう時々盗賊を差し向けられた義理もある。口うるさくはないからな」

 磔にされていなければ身振り手振りも交えそうな勢いだ。しかし誰もその話を聞いていなかった。
 思考が追いつかない。ありとあらゆる可能性が浮かんで消える。参謀として長きに渡り貢献し、ファントムを支えてきたのはペタなのだ。通常の彼ならば、絶対に室内での私闘など許しはしないだろう。つまりは彼に何らかの異常事態が起きているということだ。彼の思考を麻痺させるほどの何か、とは。想像するだけで頭が痛い。

「本人に聞くしかあるまいな」

 ガリアンが呟いた。途端に道筋が決まる。ここであれこれ考えを巡らしてもせんのないことだ。非常事態ならば原因を特定して取り除くのが一番の方策だろう。

「え、ええ。そ、それしかありませんね」
「さんせー」

 意見は固まった。大広間でハロウィンと別れてから、三人で執務室を目指した。平穏を取り戻した大広間の扉がやけに美しく思えた。廊下に出たところで、アッシュが唐突に歩みを止めた。つられて残りの二人も立ち止まり、アッシュを見やる。

「ペタのところに行く前に息子を俺の部屋に帰すよ。ちょっと待っていてくれないか」
「待たせておけ」
「そういうわけにはいかないよ。俺の命なんだから」

 今更アッシュの子供に手を出す命知らずがいるとは思えない。アッシュの溺愛はチェスの兵隊に属する者には十分に知れ渡っている。その上、子供を失うことはアッシュが戦う意味を失うのと同等なのだ。貴重な戦力を削がれることを避けるために、ペタが直々にナイトの面々にアッシュの子供に手を出すことを禁止している。襲われる危険性は限りなく低いように思われた。しかし万全をきしても心配するのは、親としての常だろう。

「いいじゃないですか、先程と違って一刻を争うとは限りませんから」
「さすがロランちゃん。話が分かるね」
「……まあいいだろう。して、お前の子供はどこにいるのだ?」
「中庭」

 予想だにしない言葉にロランは目を開いた。あそこには、今、ヴィーザルが心血を注いで咲かせた花々があるのだ。子供どころか大人ですら立ち入りを禁止している、と三日前にヴィーザル本人から聞かされたばかりだ。
 そして、朝に襲われた不安の正体に思い至る。あのときロランは中庭の薔薇と、子供の影を見ていたのだ。

「あ、アッシュさん。ヴィーザルさんから聞いてないんですか?」
「?何を?ペタに許可はとったよ」
「そんな!あそこにはヴィーザルさんが咲かせたばかりの薔薇が!」
「ええ!?」

 アッシュは見る間に慌てふためいた。その挙動からは、既に薔薇を手折ってしまったことが感じとれた。しかし彼とその子供を責めることはロランには出来ない。ペタの許可、というものはそれだけ絶対的で信頼できるものだったのだ。中庭の出入りを管理する権限はやはりペタにあるのだから。
 もしもアッシュの顔を伺い知ることができたなら、青白い色をしているのだろう。全く肌の見えない彼であるが、動揺を感じることは簡単だった。

「……気にするな、ヴィーザルはあれで子供には甘い。第一、咎をおうべきはペタだろう」
「そうならいいけど……とりあえず息子を避難させてくるよ。二人とも、もしヴィーザルが尋ねてきても」
「分かっています。言いませんし、彼が犯人を知っていたら弁解します」
「ありがとう!」

 走り去るアッシュの背を見て、ガリアンがため息をついた。重々しい空気は、それでいて電気のように二人の皮膚の上を不快感とともに走っていた。時間は昼前であるのに視界がいやに暗い気がしてならない。眩暈を疑似体験しているのに、頭はいやに冴えていた。
 何があったのだろうか、とどちらかが呟いた。こんなことなら、朝の不安の正体など知りたくなかった。六感が発した警告を軽視して先に進んでしまったことに後悔ばかりが募る。ガリアンもまた、同様の後悔をしているのだろう。あのとき、ハロウィンの不自然な言葉を気にとめていれば、その時点で止めていれば、こんな面倒な事実を知らずに済んだかもしれないと。

「問題が表面化する前でよかったですね」

 程度の低い慰めだった。ガリアンが力なく頷いたのも、自身に言い聞かせるためだろう。
 ペタという男の戦いを知っているものは少ない。前線に立って戦ったことは皆無で、時折彼がARM使いであることを忘れてしまうほどだ。しかしそれでも彼がファントムの片腕として認められているのは、一重に的確な指示を下し続けていたこにある。荒事を好む獣の群れで頭脳を認められるというのは、腕力を評価されるよりもずっと難しい。なにせ獣はずっと群れの順位を力でもって決めてきたのだから、実力の知れないペタに従うというのはこれまでの条理を覆す行為だ。それでも高い地位に立ち続けているペタが、今更理由もなく失態を重ねることはない。もしもハロウィンの一件だけであれば、何かの偶然という可能性が極僅かばかりあった。そんな低い望みもアッシュの件により消え失せてしまった今、ロランとガリアンは腹をきめなければならない。
 ペタを愚かにさせる正体不明の何かを退治する。これなら修練の門で竜と対峙した方がずっとましだ。

 アッシュはほどなくして戻ってきた。緊張を残した面持ちの彼にロランがヴィーザルの姿を見ていないことを告げた。一先ずといった様子で胸を撫で下ろしたアッシュを加えた三人は改めてペタの居所を目指した。
アッシュいわくペタは普段通り執務室にこもっている。ファントムと二人きりでいたらしく、外見には常の能面のような無表情さで書類仕事をこなしていたのだ。仮面を被っていないペタの表情を読み解くことは、アッシュの仮面の奥を知るより難しい。異変が起きていても、気を払わなければ容易に見逃してしまう。
あれこれと考えるうちに着いてしまった。ロランはやたらと年季の入った木の扉を数回叩いた。複雑な音色が響き、やがて入れとだけのぞんざいな許可が下された。

「失礼します」
「何のようだ、三人とも」

 ペタの声は冷たい。常の通りなのが、却って不安を駆り立てた。ロランは微笑むファントムに挨拶をしてから、そびえる氷の壁に向き合った。取りつく島もないとは、このことをいうのだろう。

「あの、ペタさん。今日、ハロウィンさんとキメラさんの試合を許可したのは、本当ですか?」
「何の話だ」

 心底不思議そうな声色だった。見れば、困惑が顔に張り付いている。
 傍の二人が息を呑むのが伝わった。ロランもまた、ごくりと喉を鳴らして、質問を続ける。

「じゃ、じゃあ、アッシュさんとお子さんに庭園で遊ぶ許可は?」
「覚えがないな。第一あそこはヴィーザルの薔薇が咲いたばかりだろう」

 至極真っ当な答えだ。ロランはじわじわとせりあがる感情を必死で抑えた。
ペタは普通だった。これが指し示す答えは、ハロウィンとアッシュの二人が会ったペタは別人だったということだ。一体誰がペタの振りをしたのかは分からない。しかし、そんな無謀な者は調べればすぐに分かるだろう。ペタに非のない今、彼自身が愚かな誰かを許しはしないのだから。
 肩の荷が降りた。安心に息をついたのも束の間、ファントムが立ち上がった。

「あー……ペタ、少し席を外してくれないか」
「かしこまりました」

 困ったような曖昧な笑みでペタを下がらせる。理由を聞かずに姿を消すペタを見送り、ファントムはなぜかため息をついた。
 もしかして、と浮かぶ。ファントムが悪戯したのではないか。ロランは今日二度目の嫌な予感に身を固くした。しかし得られたのはもっと悪い事実だった。

「三人ともごめん。ペタが色々と迷惑をかけたみたいだ。僕が代わりに謝っておくよ」

 ファントムが神妙に頭を下げた。ついぞ見たことのない姿に、三人は驚きを隠せない。中でもロランの驚愕は際たるもので、間抜けに口を開けたまま動けなくなってしまった。

「どういうことだ。話が見えないぞ」

 ガリアンが代表して言った。三人の気持ちの代弁だ。

「ペタは覚えてないけど、許可したのはペタだ。僕も聞いてた」

 ますますもって意味が分からない。ファントムは相変わらず真面目な顔で、冗談を言っているようには思えなかった。しかしそれでは、先程のペタは嘘をついたことになる。彼の性格からして責任逃れはらしくない気がしたし、そもそも証人となるファントムが側にいるのに虚言を貫けないとこは知れただろう。
 何か勘違いがあったのか。ロランは己の質問を思い起こしてみたけれど、誤解を招くような言い回しはなかった。ペタの回答も率直で、解釈を間違えるのは難しい。

「今日、なんというか、ぼーっとしていたからね」

 それはペタのことを指すのだろう。文脈としては彼以外にあり得ないというのに、ロランは理解に苦しんだ。それだけ惚けるという言葉が似つかわしくないからだ。

「じゃ、じゃあ、ペタさんがぼんやりとしていて、適当な指示を下したというこですか?」
「その通りだよ。ハロウィンのときは彼なりに考えがあってのことかと思ってたけど、違ったみたいだ」

 ファントムの口からため息がこぼれた。それに混じり、まさかあんなに動揺するなんて、と呟くのをロランの耳は逃さなかった。
「それで、今はどうなのだ?」
「もう大丈夫。さっきの問答で分かっただろう」
「しかし原因はなんなのさ。何か知らない?それが分からなきゃ、また同じようなことが起きるかもしれない」
「それは……」

 言葉につまったファントムはロランに目配せした。聡いロランは、先程の独り言は自分に聞かせるためにしたのだと気づいた。原因はファントムであるが、詳しく事情は知られたくないのだろう。
 本来ならば無理にでも理由を聞き出すべきだ。理性の弾き出した答えをロランはしかし一笑にふした。ファントムもそんなロランの性格を知って、助け舟に利用しようとしてるのだろう。質の悪い人だ。

「ファントムにも心当たりがないんですね……」
「そうなんだよ。まあ、暫くは僕が傍にいて、注意するから大丈夫だよ。ヴィーザルにも僕らから謝っておくから、心配しないで」

 話はそれで終わりだ。まだまだ聞きたいこと、知りたいことは残っている。しかしファントムという絶対の君主がこれ以上の追求を許さないのだから、これで終いなのだ。納得のいかない、そんな顔をした二人をひきいてロランは引き上げた。

 真相は深い闇の中。おそらくもう見つかることはないだろう。

 しかし意外にも、そう思っていたのはロランだけだった。その日の夜、ロランはファントムに呼び出された。月光の美しい空を背景に、ファントムはバルコニーでワインを開けていた。常ならば隣にいるべき影が見えず、ロランは呼び出されたというのに声をかけあぐねてしまっていた。

「おいでよ」
「はい」
「ロランは飲めたかな?」
「少しだけなら」
「ならやめておこう」

 ファントムはいたずらっぽく微笑んだ。あまりにも、らしい表情にロランは今日始めて重荷から解放された気がした。ずっと付きまとっていた不安の重い鎧を、今始めて脱ぎ捨てられたのだ。

「どこから話せばいいかな」

 呟きとともにファントムは一気に杯を空にし、宙を見た。夜の月を瞳に写して嘆息しているのにつられれば、満月が凛と美しい佇まいでいた。どこか硬い明かりはペタを思わせ、しかし今日の彼とは似ても似つかない。

「まあ、どうでもいい話なんだけどね。迷惑をかけたから言わないわけにもいかない。でも、ペタのためにもあとの二人には黙っていてくれないか」

 ロランは無言で頷いた。酷い話だとは理解しているが、ファントムには逆らえない。苦労を分け合ったガリアンとアッシュの二人に、心の中だけで謝罪した。
夜風が吹く。生温い感触を意外にもファントムは気に入って、いい夜だと言った。視線を月から手許の杯に移してから、意を決したようにロランを真っ直ぐ見つめた。

「このお酒はペタがもってきてくれたんだ。僕の好みに合うようなのを、ね。ペタは何でもそう。彼に任せておけば、僕の思うように、いいように事が運ぶ。だからさ、今朝、それを言葉にしたんだ。君に任せる、なぜなら君を信頼しているからとね」
「それで?」
「それだけだよ。それだけで、ペタは嬉しかったみたいで、仕事が手につかなくなった。結果、あの体たらくさ」
「え?」

 聞き返しても、ファントムはそれ以上口にしなかった。ざわざわと心がざわめく。ロランはこの感情を知っていた。うっかりすると膝から崩れてしまいそうな脱力感とともに、頭を掻き毟りたいほどの怒りが湧いてきた。

そんな下らない理由で。

 気を抜けば言ってしまう。ロランは慌てて口を塞いだ。何事も口走ってはならないと、強く戒める。今の彼の舌はペタを非難するような言葉しか紡がない。ペタへの貶めを発露したところで、ファントムは困るだけだ。自身の感情など二の次にしなくてはならない。

「本当にごめんね。怒ってもいいんだよ」

 ロランは無言で首を振った。口を片手で抑えたままだから、不恰好であっても意図は伝わった。ファントムが優しく微笑み、安心したのだ。

「ありがとう、ロラン。そんな君だから話す事ができた」

 ファントムの声が耳から脳髄にしみいる。沸騰した感情が柔らかく静まる気配がした。優しい、語り聞かせる彼の声は、それだけで麻薬のようだった。
ああ、と唐突に納得した。


こんな風に囁かれて落ちない人間はいない。




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