空よりも深い青い髪が揺れた。深海を想起させる色は、青空にとりかこまれた風景でも存在感を放っている。ロランは返事をするのも忘れて見とれてしまった。きもちのよい笑みは快活であるのにどことなく憂いをはらんでいる。どこかで見た表情だと思った。

「初めましてのほうがよかったかな。私はアルマ。君は?」
「ええと、は、初めまして。ロランと申します」
「ロラン。素敵な名前ね! 北の国の生まれでしょ!」
「は、はい。そうですけど」
「やっぱり!」

それから彼女はいくつか言葉を続けた。自分は南海の生まれだ。船乗りとして世界を旅して、色々な人間と知り合った。ロランという名前は北の国に多く、知り合いにも一人にいる。彼は優しい人だったなどと、矢継ぎ早に放たれロランは相槌をうつこともままならなかった。
自己紹介を兼ねたアルマの話はしばらく続いた。身振りをまじえた抑揚のある語りは彼女の朗らかな人柄を伝える。下らない雑談のような内容はロランの強張った心をほぐしていく。水面のように気持ちが穏やかに凪いでいく、

「しかしここはどこなんだろ。こんな綺麗な景色、今まで見たことないわ」

綺麗なのだろうか。ロランは改めて周囲を見渡してみた。やはり一面に全く同じ紺碧が広がっていた。変わり映えのない、青。アルマに視線を戻すと彼女は真上を見上げて微笑んでいた。つられて視線をともにすれば、そこには彼女の瞳と同じような深い海の青があった。いつか聞いた空の奥の宙の黒が彼方に置かれて、こんな深い青になるのだろうか。天辺から離れ、地に落ちるほどに青は薄くなっていっている。そして終焉に辿り着いたというのに、今度は地に薄く張った水がまったく同じ色を続けた。離れて届くことのない二人はいま手をとりあっている。

美しい。

「きれい、です」
「うん。こんなところ、やっぱり天国なのかな。私、もう来ちゃったんだ」
「妙なことを尋ねますけど、あなたももう、その、お亡くなりに?」 
「ええ」

 アルマはなんでもないことのよう言った。まるで未練のない安らかな笑顔だ。若くして命を落としたと思えない穏やかさが、返答との不協和音を奏でている。然して年の変わらないというのに彼女の達観した精神と比べて、未熟さに恥ずかしくなった。

「随分と落ちついていらっしゃるんですね」
「まあ、私は死んでから少し幽霊やっていたからね。思い残したことがあって。でもそれも解決したから今更慌てることはないわ」
「そう、なんですか」

 安堵に胸を撫で下ろしてしまった。アルマの冷静さは卓越した精神性からもたらされたのではないと知ったからだ。彼女がたとえ優れた人物であろうとロランの個を脅かしはしない。それが分かっているのに、小さな暗闇である己を消してしまいそうな光が訪れる度に相手のもつ影を探した。他人の悪しき箇所を探すなんて、優しさからは程遠いというのに止められない。
悪癖はしみついてそのままだった。また繰り返している。背比べをするように、相手の精神を測って一喜一憂している。

馬鹿みたいだ。

ロランは悔しさに顔を伏せた。音を立てて揺れる水の澄んだ美しさを汚したくてたまらない。他人がいれば比べて、勝手に劣等感を抱いて、嫉妬する。こんな下らないことはもう終わりにしたいのに、死んでも直らなかった。ほんの少しでもファントムの傍にいるような人間になれなかった。だから死んで次に期待したというのに、死してなお矮小なままだ。

「地面、白いんだ。だからこんなに水が空を写すのかな」
「え、ええ。そうかもしれません」
「ロラン。君にはあるの? 未練」

 もう死んだはずの鼓動が鳴った。驚き顔をあげると何の汚れもないアルマの瞳が飛び込んできた。届かない輝きを湛えた蒼穹の色だ。

「あります」
「そうなんだ。そうだよね」

風は吹かないまま静寂が続いた。アルマは寂しそうに微笑み、空を見ている。彼女に影はなく、足元からは彼女の虚像が揺らめいている。終わりのない時を前に彼女もロランも、成すべきことが見つからなかった。このまま別れて道を違えてしまえば、二度と会えないだろうという恐れだけが枷となっている。雲の一端ですら凍りついて動かないなかで、孤独のまま在るというのにはもう耐えがたかった。共にあれば苦しくなるだけだと知りながら、愚かにも誰かを求めてやまない。ロランはその痛みを一人で抱えていることはできなかった。
それから二人でたわいもない会話をした。初対面の人間どうし、互いの領分を探るようなぎこちないものだった。アルマは船乗りというだけあって、世界の様々な港町の話をしてくれた。今はもうない町の名前を聞くたび、ロランは彼女が亡霊であった時を感じた。彼女の思い出のなかには戦禍が影を落としていない。いつも人々の心が満たされて風景は美しいままで、まるで別の世界の話のようだ。

「アカルパポートの魚市場は綺麗だったなあ。あそこは海の道が南と北で交差するところだから、魚も色々な種類がとれるんだ。色鮮やかな魚がたくさん並んで、夕陽に照らされているのを見たときは買い物に来たのを忘れて見とれちゃったよ」
「南海の魚は色とりどりですから、さぞ綺麗なんでしょうね。初めて見たときは食べられるのか疑ってしまいました」
「そうそう。鱗が光を反射して。成仏する前にもう一度見ておけばよかった」
「でもきっともう無理ですよ。もう、あそこはありませんから」

 アルマが息を呑んだ。彼女の映し姿はわずかに揺らめいている。無理もない。彼女にとってこの世界は平和で何のしがらみもない美しい理想郷なのだから。
 ロランの脳裏には地図があった。ペタが侵略した場所を塗りつぶしていった地図だ。そこでアカルパポートの名前は一度目の戦争の際も黒く消されていた。チェスの兵隊が攻め入った場所は文字通り焼け野原になる。建物のほとんど全てが壊され、人も同様だ。

「アルマさんは戦争のことはご存知ですか?」

 本当は話す必要などなかった。美しい記憶があるならそのままにしてやればいい。死後に、思い出を喪失する憂き目にあわせるのは優しくはないだろう。しかしいつまで続くか分からない時のなかで、永遠に欺くというのもまたロランにはできなかった。騙すという罪悪感を得る前に言ってしまった方がお互いのためになる。
 醜い言い訳を呪文代わりに唱えるのは何度目だろう。つくづく呆れる。道徳の仮面を心にまで被っても本質はその腐臭で隠せないというのに。

「……もしかして、チェスの兵隊ってやつ? 幽霊のときに噂できいたけど」
「はい。色々なところが壊されました。多分、何の被害を受けなかった場所の方が少ないと思います」
「大変だったね」
「よく分かりません。ずっとそれが普通だったから」

 貧困、飢餓、戦争、喪失。ロランの記憶で世界は苦しみに満ち溢れていた。平穏な時代ですら、ただ戦争のためだけに牙を研ぎ続けていた。当たり前のようにそれだけを見て生きていた。それ以外の生き方は知らなかったし、したくはない。

「あの、退屈かもしれないですけど、私の話をきいていただけませんか? 愚痴みたいなものですけど」
「大歓迎。知り合ったら助けあう。船乗りの鉄則だよ」
「素敵です。とっても。みんなそうであれば、戦争もおこらずに済んだのでしょうね……私にはずっと焦がれている人がいました。努力の甲斐あってその人に目をかけてもらえました。それなのに、相応しくなれなかった」
「うん」
「その人には一番のトモダチがもういて、一番になれないことは分かっていたのに、ずっと苦しかった。トモダチである人を恨めればよかったのに、そうさせないほど優しい人だった。たくさん助けてもらいました。言葉や態度にださないけれどとても優しくて強かった。あんな風になりたかった」

 けど、なれなかった。

 ペタに憧れた。幼い時分に助けられたあの刹那から憧憬は始まっていたのだ。強さでも優しさでも決して敵わない人。だからこそファントムと共にあっても、そこまで悔しくなかった。羨むように二人の姿を見ることも幸せだったのかもしれない。いつか届くかもしれないと満天の星空に手を伸ばすように、美しいからこそ届かないことも諦められた。

「でも、その人は死んでしまったんです。私を、私の焦がれた人を遺して、先に。私は彼のかわりになりたかった。でもなれなかった。どうあっても喪失を埋められなかった」

 ペタを埋めた感触はまだ指先に残っている。あのときファントムは世界で一人きりだったというのに、何もできなかった。孤独が恐ろしいなんて身に染みて分かっていたはずでも、ファントムの手をとれなかった。

「そうしている間に僕はもういらなくなってしまいました。僕の焦がれた人は、トモダチの代わりの人間を見つけました」

 気づけば足元には波紋が広がっていた。幾重にも水面を揺らし、透明な水は混ざり合う。拭うこともできないままロランは嗚咽の代わりに告白を続けた。懺悔というにはおこがましい何の意味もない吐露だ。全く無関係の他人だからこそ、無責任にぶつけられた。
 ファントムがアルヴィスを求めたとき悔しくてたまらなかった。灼熱の鉛玉をのみこんだように胸が焼け、息が出来なかった。衰弱するファントムを前に彼を慮るどころか、彼の願う人の死を求めてしまった。アルヴィスが苦しんでいるときも、このまま死んでくれればと何度思ったことだろうか。焦がれるとはよくいったものだ。ロランは事実、身を焦がしていた。命を落とすまでの苛烈な感情を抱き続けている。

 嫉妬ばかりだ。優しくなんてなれない。悔しい。

「結局っ……私はあの人の特別になれなかった……願ったのに、僕は最期まで下らない人間だったんだっ!」

 なら、死ねばいい。これはあの男がいった言葉ではない。湧き上がった思いだ。あの男を殺したときから見て見ぬふりをしていただけだ。真実はもう胸の内に鎮座していた。これまでの短い人生はひたすら嘘を塗り重ねてなんとか生きていたのにすぎない。できるならもっと早く、こうして死ぬべきだった。そうすれば少しでも傷つく人間が減っただろう。ロランが殺したのは、何もあの男一人だけではなかった。
 矮小だ。死してもまだ生の記憶に苦しんでいる。もう何も残っていないというのに、まだ妬みはとまらない。ファントムとアルヴィスが生きているだろうと思うと、口に鉄錆の味が広がった。並び立つ二人の影を想像して、喉がやけつくように渇いた。もはやこぼれでているのは獣のうめき声だ。
 アルマはただ聞いていた。不明瞭な音を拾い、相槌も僅かにただロランの心を受け止めた。何もかもを受容する優しさをもったアルマは海に似ていた。もしも母親の記憶があったなら、きっと彼女のようなのだろう。

「大変だったね」

 優しさにまた瞳が溶けだした。このまま心まで一緒に流れて溶け消えてしまいたい。何もかも忘れて白い光のもと、青い空を映す水の欠片になるのだ。そうであれば、ファントムに少しでも愛されただろうか。
 ロランは考える。この地平にたつファントムの姿を。あの見慣れたしかし触れたことのない白魚の指が水を掬い微笑む。あるいは冷たさに顔をしかめる。どちらでもいい。彼の心を動かすことができるのなら、ロランは何者にだってなりたかった。
 しかし身体は少しも溶けてはくれなかった。景色も変わらず、水面もとうに元の鏡の在り様を取り戻していた。あの見慣れた波紋はどこか果てしのない遠くに消え去り、風景の果てにまだ辿り着いたことだろう。

「私も、少し話していいかな。私のこと」






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