*これが、幸せ

 蒼穹の波紋が広がった。足元を浸す水の重さも忘れロランは呆然と空を見た。いや、空ではない。ロランの目線は地を這っているにも関わらず、瞳には空と同じ青と白い雲が映っていた。
 底のない青空とそれをそのまま映す水鏡の境界線上で、ロランは在り方を探した。身じろぎの度に揺れ動く水面がただ空と地を分かちうる。立ち止まってしまえば宙といるのと変わらず、重さを見失ってしまう。空の動向をそのまま写し取った水面を見る度、ロランの心は不安に揺れた。果たして本当にこちらが地面であっているのだろうか。もしかしたら天空に足をつけて立っているのではないか。
 しかしあながちあり得ない話でもない。なぜならロランは既に死した身であったからだ。死後の世界だとすれば何がおきても不思議ではなく、合点がいく。先ほど茨の剣で喉首を掻き切っり地獄に落ちたというならば、更に納得もいくものだ。ただ広がる青空とそれを鏡のように映した大地が広がるばかりの光景は、人を狂わせるだろう。地平線すら見失い、ただ雲の反転する境があることが辛うじて分かるほど変化がない。静止したまま形の変わらない入道雲が嘲笑うように立ち塞がっていた。
 恐れを呑みこむように喉が鳴る。動いた喉の感触に慌ててそこに触れると、皮膚は平素通り膜を張っていた。傷跡も温もりもないことからロランははっきりと死を自覚した。あの場でアルヴィスが何かARMを発動しようとも、治せない致命傷を与えたのだ。いかなホーリーARMとて死者の蘇生は不可能だ。そもそもアルヴィスのあの状態では何かARMを発動することすらできなかっただろう。
 他人を貫いたことはあれど己を殺したのは初めてだ。幾度も夢想し怯えたものであったが、騒ぐほどのことはなかった。死の瞬間は不思議と痛みは感じず、ひたすらファントムへの思慕があったのを覚えている。最後まで共にいられないことへの後悔と、それに足る人間でなかったことの哀切は身を切るような苦しみだった。それに比べて死のなんという呆気ないことか。ファントムはロランの死を望まずに呪いの刺青を刻んだというのに、破ってしまったのが最も心苦しかった。
 仕方ないのだ。ロランにはもう己を信じることができなかった。もう何人も殺め、呪い、妬んだ自身がひたすらに嫌いだった。憎いから殺人を犯したのではない。呪うのも妬むのも等しく対象に憎悪をもっていなかった。ファントムとともにありたいから、それ以外の全てを捨てて、手段を選ばなかったのだ。ファントムやペタとは違い、人間に恨みなどない。いつだってこの心を焦がすのはファントムへの想いだけだ。
 歪んでいる。ファントムに望まれない形だ。彼はただ純粋に迫害された者の怨恨を晴らそうとしていたというのに、これでは背信者だ。最初にあの男を殺めたときに気付くべきだったのだ。

いつだってファントムとともに生きられないことだけが怖かった。しかしそれこそが最大の裏切りなのだ。

ああ、またあの男の声がする。

「なら、死ねばいい」

もう死にました。だからもう終りです。

そう自覚した途端に胸がはれた。

 ロランは歪に笑った。これが罰なら甘んじて受けよう。あの男への許しは請わない。ファントムへの贖罪にはなりはしなくともいい。誰かがいる世界よりもこうして一人、永遠に彷徨うことのなんと気楽なことか。他人がいれば必ず比べて、嫉妬して、魂を穢してしまう。ならば孤独のまま少しでも彼らのような優しさを思い出して、ファントムに望まれる人間に近づいた方が彼も喜ぶだろう。たとえ無意味だと知っていてもファントムの望みを叶えようと足掻くことにした。
 ロランは絶望への旅路を歩きだした。歩みの度に足元に水がからみつき揺れる。水を吸ってすっかり重くなった衣服に足をとられないようにゆっくりと動く。景色は雲の端ですら一つも変わらないけれど、静止するにはまだ正気を残し過ぎていた。響く水音は心地よいものではない上に、音がそれしかないものだからいやでも耳について離れない。掻きまわされた水だけが鏡を演じず、本来のあるべき姿に戻る。即ち、無形で無色だ。ほんの少しだけそうして水鏡を揺らして戻す。石を積み上げて崩すという地獄の言い伝えそっくりだ。

隔絶された青の光景は、しかし呆気なく終焉を迎えた。

 境界線上に長い髪の女性が立っていたのだ。彼女はロランの存在に気付くと微笑みを浮かべてロランを迎えた。

「こんにちは。いい天気だね」






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