さよなら、愛しき日々よ


 あの人が笑っている。ロランはそれだけで眼底から涙が溢れそうになった。眩しい光を見たときのように、滲む視界が自然と狭まる。大粒の雫が流れそうになるのを手で拭って、誤魔化すように笑顔を作った。太陽に近づき過ぎた翼は墜ちるしかないと知っていても、ロランはファントムを目指して駆けだした。子供の無知を言い訳に携えながら、墜ちてもいいと心から思っていた。
 未熟な体躯でも花を潰すには過ぎた重さだ。小さな一歩の度に茎が折れて花弁が散る。か弱い花々が身を寄せ合って生まれた安息の地を、無邪気に蹂躙した。それでもその中心にファントムがいるから、ロランは歩みを止めない。犠牲を振り返ることもせず、彼だけを目指して一直線に走った。蜜だけを啜って生きる蝶は身軽にロランの行く先を塞いだ。幻惑のように揺れるその羽を退かし、邪魔だと吐き捨てることも平気だった。

「転ばないようにね。意外と足に絡まるんだよ」

 青い空を従えた笑顔がある。足元で揺れる花々は、とりどりに着飾って彼に潤色を加えた。緑の絨毯に咲き誇った花は模様のようで、自然という幾何学を鮮やかに描いている。天の青は柔らかな雲に乗り、全ての色を懐抱した。そして蓋壌を繋ぐただ一人の彼は、何よりも美しく笑ってみせた。人の身でないからなのか、人であったからこその笑みなのかは分からない。しかしこの世の罪過の一切を背負わない魂は澄みきっていて、原罪を拒絶する。楽園に住まうことを許された御身は、神の願った形をしていた。
 眩耀して揺らめく姿は、たおやかに手を伸ばした。ロランも細い腕を目一杯に刺し出した。触れあった瞬間には掴まれ、身を抱き寄せられる。胸に抱かれてしまえば、両脚は宙に任せるしかない。大地を失った心細さに服を握れば、ファントムは慣れた手つきで髪を擽る。それは失くしてしまった日々との再会のようで、少しだけ照れくさい。しかし涙でふやけた瞳よりはましだと、彼の胸板に縋った。

「どうかしたの?」
「いいえ、いいえ。ぼ、僕、嬉しくって。初めて、こんな綺麗なものを見たから」
「そうだね。ここは本当に綺麗だ。本当に」


 風が吹いた。地に栄えた華奢な露命を躍らせた。地面を舐めた花弁の群れが、歓喜のまま天を目指した。
火照った肌を優しく戻す風は有り難かった。ロランは花弁を追うふりをして顔を上げた。そうして網膜が写したのは、儚いファントムの横顔だった。蒼白の肌と色のない唇、血の色をした瞳は一様に切なさを語っていた。天駆けた花弁よりも美しく、繊弱だった。

「ファントム……?」
「生きているのに、どうしてこんなに綺麗なんだろうね?」

 声は哀歌のそれだった。凄涼を含ませた響きは、ロランには向けられていない。かつてロランが背負ったように、ファントムもまた孤独を身に潜ませていた。この喪失を埋めることは出来ないとファントムは言っていた。それは真実で、時折こうして寂寥を滲ませた。
ロランはファントムの失った全てを知らない。彼が命を投げ捨てるに至った道程をなぞることは、許されていなかった。だからこそ慰めるなんて考えず、ただ手を繋げる代わりに頬に触れた。この体温が雪のようなファントムを溶かし消してしまわないか、それだけが心配だった。

「ありがとう」

 ファントムは決して笑っていない。しかし悲泣してもいない。それだけで、いいのだ。
 ロランの理想はここにある。これ以上は望まないと何度も誓った。胸の奥底に沈めた想いはもう殺したのだ。ファントムは決して己に救われないと知っているから、これ以上はどうしたって叶わない。ファントムの喪失は誰にも埋められない。それはペタであっても、キャンディスでも、クイーンでも、キングでも不可能なのだ。
 何よりもファントムが望まない。孤独を、寂しさを失うことは忘却と同一だった。殺した命を忘れてしまえば、その命があったことを誰も知らなくなってしまう。そんな残酷な振る舞いの意味を知れば、行うことは不可能だった。
 だからロランも忘れない。逃れようとしない。己が通った道に横たわる屍から目を逸らそうとしたことはただの一度だってなかった。殺した者達へ哀悼を捧げなく、さりとて無き者にもしない。

「ねえロラン。僕たちは幸せになるべきだと思わない?」
「ぼ、僕は幸せじゃなくても、いい、です」
「ううん。幸せになるべきだ。僕たちは多くを失って、這いずるように生きたんだから」

 そう微笑んだ彼は、何よりも美しい。ロランの胸を涙が満たす。それは聖域に触れられない咎人の嘆きと同じだ。
 ロランは悲しみを殺してファントムに笑いかけた。どうかこの人だけでも幸福でありますように。

 その無垢な祈りは届くことがなかった。


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