死なない孤独(1) 満月の夜だった。空には太陽の輝きを手に入れられない星々が我が物顔で居座っている。雲すらも押し退けた夜空は、みずぼらしい斑点で着飾ったつもりになっていた。重苦しさを感じさせる黒色の空を、ファントムは見上げ続けた。弘遠な空は孤独を想起させ、息苦しさはあっても美しさは存在しない。 ここは冷たい。ファントムは白い息を吐き出し、思った。胸を迫り上がる愁嘆を御することなく、暗風に乗せて旅する。暗闇からファントムの思考が行き着くのは、いつだってあの独房だった。 幼少からあまりにも長い時を過ごした小部屋。その記憶がファントムを縛りつける。 時が移ろい盤拠しても、檻からの脱出は叶わなかったのだ。巨大な組織に守られ拠点となる城にいながらも、無力を実感する。瞼の裏に焼きついた檻はファントムを捕らえて離さない。自室から空を仰いで、逃げられないことを教えられた。 「眠れないのか?」 低い声は、気遣いとは無縁に響いた。実のない笑みを貼りつけ小さく頷けば、それで終わりだ。オーブがファントムの挙動に疑問を抱き、機微を察することはない。人の心を理解し得ないオーブに、ファントムもまた失望を持たない。形式から成り立つそのやりとりは虚ろだった。仮初めの器であるARMに宿る彼にとって、人間など縁遠いものなのだろう。 「ねぇキング……貴方のそのゾンビタトゥは僕以外でも、誰でも、使えるんですよね?」 「そうだ。まあ少々、お前より時間はかかるやも知れないが」 「時間は関係ありませんよ。今の僕には」 ファントムは音なく笑う。その真意に気づいて尚、オーブも笑った。愉快を気取った笑いは残酷に彼の本質を示した。ファントムの自嘲など意に介さないと、笑語は告げる。 悪意から生まれたというオーブはまさしくその化身だった。見るに耐えない醜悪で劣悪な本性を隠すこともしない。だからこそ善を信じる大衆にとっての脅威で、無辜なる群衆を憎んだファントムの隣人であり続けられる。しかし彼と友人になれるはずもない。オーブにとってファントムは、愚かな道化に過ぎなかった。 「念のために言っておくが、ディアナはタトゥを受けないぞ」 「知っています。彼女は生と死を手放せるほど謙虚じゃありませんからね。僕のトモダチは他にいます」 ファントムは目を閉じた。暗闇の中に浮かんだ輪郭の名を呼ぶために。 「ペタ……」 「ふん、あいつか。あまり信頼出来る奴ではないな」 「それも知ってます。ペタは僕のこと、そんなに好いてないみたいだから」 笑みを象った唇は震えていた。独り善がりを知りながら、意識の奥底ではそれを認めないと足掻いていた。孤独に襲われ怯えてしまうのは、それが何よりも恐ろしいと身を以て学んだからだ。 孤愁は刻まれたまま消えない。時に己の手先すら見失う暗闇で、声を枯らして泣き叫んだ日々。助けを期待して、勝手に絶望して、死を切望するまで一人きりだった。あの夜闇を忘れることなど、誰にできようか。 ファントムは回顧を繰り返した。純白の紙を黒で塗り潰すように、執拗に色を重ねる。厚く重く何物よりも深く、痛い。気づけば綺麗だった紙は醜くひしゃげていた。 そんな風に痛みに打ち負かされた。傷を癒すことが出来ず、今も苦痛に呻き続けている。 夜を、孤独を、人を、恐れてやまない。 「こんな弱いやつ、僕だって願い下げだ」 痛みと恐れは目を眩ませる。ファントムは深い傷を抱え、心を盲目にした。自分を閉ざし、痛みに耐える。そうしなければ負けてしまいそうだ。 苦痛に溺れるファントムにオーブは言った。決して気づかれることのないように、小さな声で呟いた。もしもファントムが聞けば、彼は希望を抱いてしまうだろう。順調に壊れ行く玩具を、今更気遣うつもりはなかった。 それでも言葉にしたのは、愉快だからだ。ペタに好かれていないと頑なに信じるファントムは、滑稽な程に苦しんでいる。嬉しくて楽しくて、オーブは言った。「そうではないのだが、な」と。 |