4.

「ヒカルー、良い子にしてたかー?」

「…!!」

岬が週に2.3回程、仕事の合間を縫ってヒカルの病室を訪れることが習慣になってきた、六月の終わり。
ヒカルも岬に懐き、姿を見ればすぐに笑みを浮かべるようになっていた。

ドアから顔を出した岬に、ヒカルはいつも手放すことなく持っているうさぎのぬいぐるみをベッドに放り出せば、ベッドから降りて岬に駆け寄ろうとする。
だが、栄養失調のまま狭いアパートに閉じ込められていた身体の筋力はだいぶ弱い。シーツに足を取られたヒカルの身体は堪えきれずにベッドから落ちそうに傾いた。

「っと! …ドジだな、ヒカルは」

顔面から床に落ちそうになっていた身体は、落ちるよりも早く駆け寄ってきた岬の腕に掬われ抱き上げられた。

「お前なー、点滴もついてるんだから、あんまり暴れんなよ?」

おでこをこつんと軽く叩いて睨んでみるも、ヒカルは暫し岬を見つめるも、すぐに何もなかったように笑みを浮かべ、岬に抱きついてきた。多分、優しさの混じる声音で言われた言葉に、怒られたこともあまりわかっていないのだろう。
…しょうがねぇなぁ。岬はふっと苦笑を浮かべれば、ヒカルを抱いたままベッドに腰を下ろす。

「ほら、うさぎ転がってんぞ」

そう言ってベッドに放り出されていたぬいぐるみを取ってやれば、ヒカルは嬉しそうに抱きしめた。




ーーヒカルが、失声症以外にも日常生活を送るのための問題を抱えていることを知ったのは、2回目に病室を訪れた日のことだった。
その日も当直明けの非番で、訪れたのは前回よりも少し早いお昼時。病室の近くまで行けば、看護師がいるようで若干騒がしい。
病室を覗けば、そこには食事に奮闘する看護師とヒカルの姿があった。

「ヒカルくん、ほらスプーンこうやって持って?」

「っ……」

看護師がスプーンをヒカルの手に握らせてもらうも、なかなかうまく救うことはできない。もどかしそうな顔でヒカルはスプーンを睨む。

「どうしたんです?」

岬が様子を伺いつつ声をかければ、岬に気付いた看護師が振り向いた。前回訪れた時に最初に声をかけた看護師ーー若狭(わかさ)だった。
若狭は一度ヒカルの食事補助をやめると、少し疲れたような笑顔で岬に言葉を返す。

「あ、岬さん。こんにちは」

「こんにちは。ヒカル、昼飯ですか?」

「ええ、そうなんですよ。ただ、今まで食事の仕方も教えられていなかったみたいで……ぁ、ヒカルくん!」

困ったようにそう話していた若狭と岬がふとヒカルを見れば、スプーンを置いて手掴みで食事をするヒカルの姿があった。
それを見れば、食事の仕方以前にまともな食事を与えられていないことまで想像するのは簡単だった。岬は憤りを必死に堪えながら、ベッドの横にある椅子に座り、ヒカルに声をかけた。

「ヒカル、美味しいか」

「……?」

問いかける岬に、ヒカルは緑の瞳でまっすぐ見つめながら首を傾げる。
その様子に、若狭は悲しそうに話す。

「駄目なんです。言葉も満足に覚えてないみたいで…」

日本語以外もいくつか試したんですど、と呟く若狭の言葉に、岬は怒りで怒鳴りたくなるのを辛うじて堪えた。
言葉を覚えていないということは、それだけ声をかけられることもなかったということだ。
外に出ることもない、親から声をかけられることもない、そんな生活を9年間ずっと続けてきたというのか、こいつは。

「岬さん…」

若狭の心配そうな声音に、岬は血管が浮き出るほど強く握りしめた拳を緩めた。

「…よし。ヒカル、口開けてみな?」

一度深く深呼吸をすれば、手掴みで食べ進めるヒカルに声をかけた。岬の言葉に、手を止めて首を傾げるヒカルに笑いかければ、置かれたスプーンを手に取り、ご飯を掬ってヒカルの口元に運ぶ。
目の前に差し出されたそれに、ヒカルは暫し悩んだあと、ゆっくりと口を開き、それを食べた。

「お、偉いな。お前、ガリッガリだからもっと食べなきゃなー」

意味はわかってないのだろうけれど。そう言ってその頭をわしゃわしゃと撫でてやれば、ヒカルはやっと嬉しそうな笑みを浮かべた。




あれから半月ちょっとが経ち、ヒカルはスプーンやフォークはだいぶ上手に使えるようになってきた。
言葉も看護師や岬にかけられる言葉から、“ご飯”や“お水”のような基本的な単語の意味は少しずつ覚え始めてきた。

膝の上。岬の胸板に身体を預けながら、うさぎのぬいぐるみの耳を弄ぶヒカルに、岬をヒカルと会うたびに感じる切なさが襲った。
感情表現に乏しいヒカルは、岬が訪れるまで殆ど笑うことも泣くこともなく過ごしていたらしい。今までの生活を思えば、それも当たり前だろうと思う。きっと感情を表に出さないことは、ヒカルが生きていくためにも必要なことだったのだろうから。
それでも、この短期間でヒカルはだいぶ笑うことが増えた。最近は医師や看護師に撫でられたりすることでも、笑みを浮かべることが増えたと聞いている。
そんな、小さいけれども大きな変化が、とても嬉しかった。

「ヒカル」

「?」

名を呼ばれ、ヒカルは岬を見上げて首を傾げる。
名前は、言葉のわからないヒカルが唯一理解できていた言葉だった。母親の同棲相手の男の証言から、名前がわかったらしい。
名前を付けてもらい、その名前で呼ばれていたことがある。ごく当たり前なことだが、ヒカルの境遇を考えれば、せめてもの救いの気がした。
こんな良い子なのにな。不思議そうに岬を見上げてくるヒカルに、岬は笑みを返せば、その頭を優しく撫でやった。

「良い子だ、ヒカル。良い子だ」

ヒカルが笑う。岬は、それがとても嬉しかった。

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