あの日君の手を掴めなかったことを、今も後悔しているの続き


 わたしはあのひとの背中を見送ることが何よりも大嫌いだった。

 どれだけ親しい間柄になろうとも、決して侵せない領域は誰にだって少なからず存在する。究極的には赤の他人である恋人は元より、その他人を家族と認める婚姻を経てすら、到底、互いの全てを占有することなど出来やしない。
 そして、あのひとにとってのそれは空だった。
 少し悔しくはあったけれど、そのことそれ自体は別に良い。全て承知の上だったから。戦術予報士だったわたしは、空へと上がるあのひとの姿を近くに感じることが出来ていたから。
 それなのに。

(あの日あのひとはわたしに戦術予報士を辞めろと言った。口論の末、あのひとのあまりに苦しそうな顔を見ていられなくなったわたしの根負けだった)

 鳥籠に入れられた気分だった。扉の鍵はいつだって開いていたけれど、望む場所へ行く為の羽根が削ぎ落とされていた。
 それからだ。あんなにも、あのひとの背中を見送ることが苦痛になったのは。
 あのひとがわたしを想ってそうしたことは解っている。だから諦めもつくと思った。けれど、結果的にそれは逆効果でしかなかったのだ。安全な場所に隔離されたわたしの底に生まれたのは、もしかしたら、あのひとが帰って来ないのではないかと言う不安だった。
あのひとを、空に――奪われてしまうのではないか、と。

(「あなたの愛は重すぎる」)

 そして結局、わたしは全てを壊し尽くしてしまうことを選んだ。

***

 ひどく懐かしい悪夢を見た。わたしが戦術予報士を辞めたときの夢、そして、戦術予報士に復帰することを決めたときの夢。
 今日から転属だと言うのに朝から最悪の気分だ。……いや、だからこそ、か。そもそも、急遽新設された部隊にわざわざ専任で戦術予報士を置くだなんて異例中の異例。上層部もそれだけ件の『ガンダム』を警戒しているということなのだろうけれど。あろうことか隊を預かる責任者があのひとで、そこへ配される戦術予報士がまさかわたしになるだなんて、巡り合わせとは如何にも恐ろしい。
 とは言え、仕事である以上は割り切る他ないのだが。早々に挨拶回りを済ませるべく、わたしは重い足を無理矢理に引きずり――そんな風に考え事をしていた所為か、廊下の角で誰かと鉢合わせかける。

「ああ、申し訳ありませ――」
「……なまえ?」

 名を呼ばれて顔を上げれば、視界に映るのは癖の強い金色の髪と、どこまでも真っ直ぐな緑色の瞳。そこにいたのは、嗚呼――。
 「……グラハム・エーカー中尉、ですね。丁度、ご挨拶に向かおうと思っていたところです。私、本日付けで配属された、」「ああ、聞いている。形式張った挨拶は結構」。そのひとはわたしの言葉を遮って言った。腕を掴まれる。わたしが首を傾げれば、そのひとは続けて「少し、君と話がしたい」、と。そうして返事をする間もなく、わたしは手近な空き部屋へと連れ込まれる。

「結局復職したのか、君は」
「はい」
「今までどうしていた」
「プライベートですのでお答えしかねます」
「……そうか、」
「中尉、お分かりかと思いますが今は職務中です。私も職場に私情を持ち込むつもりはありません」
「私とてそのつもりはない。だが、もし私が今夜食事に誘ったら君は来てくれるか?」
「お断りします」
「ならばここで一分だけ時間をくれ」

 その射抜くようにまっすぐな瞳に耐えられなくて、わたしは視線を俯ける。沈黙は肯定。目の前のそのひとが詰めた息を僅かに緩める気配。「変わらないな、君は。返答に窮するとすぐに俯く」。

「……あの時はすまなかった。今にして思えば、私にパイロットとしての矜持があるように、君にも戦術予報士としての矜持がある事を理解するべきだった。私は君の矜持を傷付けた。君は一度たりとも私に空へ上がるなと言ったことはなかったというのに――気付くのが遅すぎたな、すまない。ありがとう」

 慈しむような声。胸の奥がひどくざわつく。
 「伝えたかったのはそれだけだ。引き止めて悪かった」。背を向けたそのひとの腕を、今度はわたしが掴んでいた。驚いたように彼は振り向き、それからすぐにやわらかく笑う。「何かな?」。何、と言われても、わたし自身何が何だかわからなかった。それでもこの、衝動的な、感覚は。

「…………食事、……明日、なら」

 何とか言葉を絞り出す。
 あの日あの瞬間から思考することを諦めていたのは――わたしだった。


 そして翌日の夕食の席で、彼はまるで何でもないことのように「まだ愛している」と笑うのだ。
(沈黙は、肯定)



不器用すぎる僕等
title:選択式御題
20120913
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