――がしゃん。 何かの割れるような音がして、グラハムの意識は微睡みから引き上げられる。 隣を見遣れば、昨夜確かに抱き締めて眠った筈のなまえの姿が見えない。また彼女が癇癪を起こしているのだとグラハムが結論付けるまでに、そう時間はかからなかった。 カーテンの隙間から射す光は未だ薄暗く、ベッドを抜け出す間にも寝室のドアを開ける間にも、(まるで、うっかり手を滑らせたのではないと希望的観測を嘲笑うかのように)鋭い破砕音は止まない。 「なまえ」 リビングの入口から呼びかけて、ようやく、食器棚の中身を引きずり出しては手当たり次第に床に叩きつけていた手が止まる。ついと、なまえの虚ろな視線がグラハムを捉える。 「嫌な夢でも見たのか?」。なまえがこうなっている原因にも、おおよその察しはついていた。それでも、敢えて見当違いの事を訊きながら、グラハムは少しでもなまえの傍へと歩を進める。 「……ぐらはむ、」。手を伸ばせば触れられる程の距離。それまでぼんやりとグラハムを見上げるだけだったなまえの瞳が急速に焦点を結び、そしてその薄い唇が吐き出したのは。 「来ないで」 再び食器棚へと手を伸ばし、なまえは取り出したグラスを棚の角へと叩き付ける。派手な音を立てて砕けるグラス。自らの掌が傷付く事も厭わずそれを強く握りしめ、なまえはその切っ先をグラハムへと向けた。 「優しくしないで!」 「なまえ、血が」 「うるさいうるさい! 何をしてもらったってわたしはすぐに忘れてしまうの何もわからなくなってしまうのだったらグラハムもわたしを忘れてしまうべきだわ……もう放っておいて」 「君が何を言おうが、どう思おうが、私は君の傍を離れるつもりはない。なまえ、」 「どうしてっ! わたしは貴方を不幸にするのに!!」 ヒステリックな金切り声。肩で息をしながら、なまえは突き刺すようにグラハムを睨み上げる。その言葉は、概ね、グラハムの予想通りだと言えた。 彼女は病を患っている。幾らか進行を遅らせる事は出来るものの生涯完治することのない、それは所謂不治の病で――今はまだ物忘れが多い程度だが、やがて、少しずつ思い出すらも喪っていく。 医師からそれを告げられたなまえはまず仕事を、それから人間関係を。次々に外界との繋がりを手放していった。忘れてしまう癖に傍にいては傷付けるだけだから、と。それは彼女なりの気遣いだとも言えたが、けれど、だからと言って。 「なまえ。仮定の話をしよう。例えば、私と君の立場が逆だったとして、だ。私はいずれ全てを忘れてしまうから君も私を忘れて幸せになるべきだと、そう言ったなら、なまえ。君はどうする?」 「……ッ! そ、れはっ」 「十中八九、君は烈火の如く怒り狂って私の言葉を突っぱねるだろう」 「でも! でも今はそうじゃない! そんな仮定に意味なんか、」 「ある。同じ事だよ。……熱くなると意固地になりすぎるのは、変わらず君の悪い癖だな」 「……っ、あ……う」 「ほら、おいで」 「…………ごめん、なさい……」 「気にしていないさ。それより、君の怪我を診る事の方が先決だ」 先程の勢いはどこへやら、グラハムはすっかり意気消沈してしまったなまえの手からグラスを放させ、足元の破片を踏まないようにその手を引いてやる。 「わたし……忘れたくないのに……」。ぽつりと小さく落とされる声。静寂が満たすその部屋に、たったひとつそれだけが、痛切に響いた。 (彼女にしてやれる事が、私に後どれ程残されているのだろうか) 嗚呼泣かせるつもりはなかったなのに泣かせたくなかったのに泣いて欲しくなどなのにどうしてきみの雨は止まないのだろう? title:選択式御題 20120205 |