五月雨柏手
『月を望む』

りぃん、りぃん。
りぃん、りぃん。

鈴虫の音色がよく響く夜。
夏の焼けるような熱は過ぎ去り、日が落ちた家屋の中を巡る風はひやりとした冷気を孕んでいた。
湯を浴びた後の肌の上に残った僅かな湿気をその風が拭っていく。
鼻唄混じりに自室へ戻ろうと、喜助が脱衣所から廊下へ足を踏み出したときだった。
その、愛しい気配に気付いたのは。

「ーーーおや、月見酒ですか」

縁側に腰掛けて、一人月を望むその背中にそっと近寄る。 月見酒だ、と判断したのは、彼女の傍らに置いてあった盆に、見慣れた酒器が並んでいたからだ。

「えぇ。今夜は月がよく見えますし」

肩越しに軽く振り返った風華は、喜助を一瞥し、またすぐに丸く輝く月へと向き直った。なんとなく、それが気に入らなくて「誘ってくれたらいいのに。一人だけ楽しむなんて狡いっスよ」とわざとらしく口を尖らせると、彼女は「そう言うと思って黙ってました」と口許を綻ばせた。

「どういう意味っスか?」

喜助が首を傾げると、風華は何処か遠くを見つめて淡々と語り始めた。
かつて、こうして何度も何度も、一人で、月見酒をしていたことを。
喜助を呼ぶでもなく、かといって、他の友人を呼ぶでもなく。
たった一人で、何度も何度も。
あの広い屋敷の縁側で。
けれど、そこに淋しさはなかったのだという。

「ーーー月を見ていると、なぜか、貴方を思い出すんです」

なぜか、と問い掛けながらも、その問いに自答にするように「その髪の色のせいかしらね」と彼女は薄く微笑む。
「だから一人ではないように思えたのかもしれないわ」と呟いた風華の瞳は遥か上空の丸いそれに奪われたまま。
白く透き通った肌が、月光を浴びた風華の顔をより造形めいて魅せていた。喜助はふっと視線を外して、けれど月を見上げる気にはなれずに庭先へと適当に投げ付けた。
並んだ盆栽の鉢植えか、もしくは花壇のどこかに鈴虫が潜んでいるのだろう。

「今夜は満月ですし、たまには昔を懐かしんでみようかと思って」

手に持った猪口を煽り、ほぅ、と一息ついた風華が漸く視線を此方へ向けた。しかしまたすぐに空へ浮かぶそれに向けられてしまう。風華の視線を追うようにして、喜助もそれを見上げた。

「ああ、まさしく中秋の名月ですねぇ」

「綺麗ですよね」

「ええ、本当に。・・・ねぇ、」

傍らの女性を振り返ると、同じように彼女もこちらを振り返った。ふわりと花の香りが広がる。

「はい、」

「・・・いや、ごめん。何でもない」

疑うことを知らぬ純真無垢な赤子のように澄んだ瞳を向けられて、喜助はさっと顔を逸らした。
蝶よ花よと育てられた彼女が、その実、そんな日溜まりの中で育ち続けた訳ではないことを知っている。
日陰で、堪え忍ぶ生き方を強いられてきたことを知っている。
けれど、普段の彼女の様子からはそれが分からない。
それ故に、ーーーーー

「ふふ」

「なに笑ってるの」

「いいですよ、無理に言わなくても」

「・・・え?」

「その答えを私が言いますから」

「何、を」

ーーーーー、惑う。
蝶よ、花よと育てられた女性に向けるような、砂糖菓子のような甘ったるい甘言でもって、彼女を惑わせていいのかを。

「『私、死んでもいいわ』」

微笑むでもなく、蔑むでもなく。かといって得意気な訳でもなく。
ただ、そこにある事実を告げるかのように、風華は淡々と臆することなくその言葉を音にした。

「・・・本当に、アナタには敵わないな」

ばりばりと後頭部を掻いて、視線を逸らす。
風華はくすくすと綻ぶ口許を、その白く華奢な掌で覆い隠す。

「でも、意外ですよね。お世辞とかは得意なのに、ちゃんと気持ちを伝えるのが苦手だなんて」

「んー、取り繕ったり、隠れて何かやらかすのが得意だからね」

嘘ばっかり得意になっちゃったなぁ、と一人ごちる。
風華は何も言わない。そっと睫毛を下ろした気配がした。
振り返ってみても、周りを誤魔化したり、欺いたり、そんなことばかりしていた。自身の胸の内を素直にさらけ出すような輩でもなく、それこそ、そんな言葉を口にする必要もなかった。

「それで、苦手なんですか?」

「・・・かもね」

「辛くは、なかったんですか?」

「そんな風に考えたこともないよ」

「そう、ですか」

喜助が小さく頷くと、彼女は小さく吐息を漏らした。いつだって、他人の痛みを自身のことのように思ってくれる彼女は、今もまた、喜助の痛みに寄り添おうとしているのだろう。
そんな風華に、今自身が出来ることと言えば。

「まぁ、そんなボクにも、これは丁度いいかもね」

「なにがですか?」

小首を傾げた彼女の琥珀の瞳が此方を向いた。
まるで彼女から落ちてきてくれるように。

「『月が綺麗ですね』」

先程口にすることを躊躇ってしまった言葉を舌に乗せる。もう言われることはないと思っていた風華は、ひゅっと小さく喉を鳴らし、その視線を波打ち際の水面のようにゆらゆらと揺らめかせた。

「・・・、どうして、」

桜色の柔らかな唇は、言葉を半端に途切れさせたまま開閉を繰り返す。空いた隙間からちらちらと見える赤い舌がいつにも増して扇情的に見えるのは、今宵が満月だからだろうか。

「本当に、綺麗で仕方ない。あんなに遠くにあるものなのに、欲しくて欲しくて堪らなくなったんだ」

「・・・っ、喜助さん、私、お酒用意して来ますから、」

愛しさを言葉にするだけで、胸が焼けるように熱い。喜助の熱がその言葉から伝わったのか、さっと頬を紅く染めた風華が腰を上げかける。「甘いなァ」と彼女の腕を抑え込む。

「ここで逃がすわけないデショ?」

「・・・喜助さん、」

「遠慮なんかしなくていいですよ。ああ、でも、アナタは言われるのが苦手なんでしたっけねぇ?」

揶揄するような口調で詰め寄れば、風華は眉根をきゅっと寄せて、より恥ずかしげに俯いたまま喜助の腕を引き剥がそうとする。

「分かってるなら、離してください・・・!」

「言ったでしょ?やられっぱなしは性に合わないって」

ぐっと彼女の体を抱き寄せて、細い頤に手を掛ける。
柔らかな風華の唇をそっと親指の腹でなぞる。
左から右に。右から左に。数回往復させると、うっすらとその唇が開く。半端に開いたそこへ舌を捩じ込みたくなる欲求を、喜助はただひたすらに押し止めていた。

「愛してるよ」

琥珀色の瞳の中に自身の姿が映り込んでいる様が分かるほどの距離で告げる。
互いの唇が触れ合うまでの、ほんの僅かな距離を残したまま。

「他の生き物全てが霞むぐらいに綺麗だ。何よりも愛しい。ずっと手元に置いていたい」

喜助が語るものは、何も風華の外見だけの話ではない。
彼女そのものに惚れている。
言うなればーーー。

「アナタの心に、惚れてるんだ」

琥珀色の双眸が潤み、濡れたそれが見つめ返している。
薄く開いた漏れたつぅっと、背中をなぞる。
びくん、と体を跳ねさせた風華の唇が、自然に喜助のそれと重なる。離れる前に柔らかなそれを軽く食んでから、解放してやる。
案の定、彼女は言葉を発することも出来ないままに頬を紅くして身を縮こませている。

「どうしたんスか?顔真っ赤にしちゃって。ーーーーああ、もしかして呑みすぎたんスか?」

めっずらしーい、なんて口笛を軽く吹いてみせると、喜助の胸板に、大して力の入っていない拳が叩きつけられた。

「もう!」

「アハハ」

「喜助さんっ!!」

けれど、これぐらいしなければ彼女へのお返しにならないのだ。なぜならば、もう既に同じようなことを彼女に言われてしまったことがあるからだ。
鮮明な映像と共に、繰り返し夢に見てしまう程に、今もはっきりと思い起こせるその言葉を。

「ーーー同じようなこと?」

覚えてますか、と問えば、言った本人にとってはすぐに記憶と結び付かないような些末なことだったのか首を傾げるばかり。喜助は肩を落として、盆に置かれていた風華の猪口に僅かに残った酒を煽る。

「『私、死んでもいいわ』」

空になった杯に新しい酒を継ぎ足して風華に返す。
彼女はそれを受け取りつつ、困ったように眉尻を下げていた。

「・・・私、そんなこと言いましたっけ?」

「言いましたよ。『どうか、貴方の手で、私のすべてを終わらせてください』ってね」

溜め息混じりに一瞥を向けると、彼女は漸く思い出したのか小さく「・・・あ、」と呟いた。

「アナタのことは大抵記憶してますけど、中でもこの言葉だけは、一言一句違えず記憶してますよ。・・・まさか忘れた訳じゃありませんよね?」

「それは有り得ませんけど、」と言い淀んだ辺り、忘れていないというのは本当かもしれないが、彼女の中ではあまり重要ではなかったのかもしれない。

「・・・うん、そうですよね。きっと同じ気持ちだったんじゃないかしら」

「今、命を終わらせても構わない程に想っている。危うさを伴う程の激情でもってそれを示せるとでも言うんでしょうかね」

「・・・もしかして、まだ怒ってます?」

「当たり前でしょう!?」

らしくもなく強い口調になってしまったせいか、風華がびくりと肩を跳ね上げた。どうにも彼女は自身の言い出した事の重大さを理解していないように思う。そういうところも含めて彼女に惚れているのは確かだが、喜助としては"自己犠牲"を美徳とは捉えられない。

「言われた方の身にもなってみて下さいよ。まったく、アナタって人は」

見ていてこれほど危なっかしい女性も珍しいのではないかと思うほどに、この風華という人は献身的過ぎるきらいがある。

「ええっと、喜助さん、ごめんなさい。もう許して下さい。ね?」

許す許さない以前の問題だ。そういう話だと捉えられてしまっている間は、彼女のこの性格は変わらないだろう。はたしてどうすれば伝わるのだか。かつてここまで喜助の頭脳を悩ませた問題があっただろうか。ーーーいや、ない。

「・・・いつだって、そういうことはアナタに先に言われてるんだよね、ボクは」

風華はまたきょとん、と首を傾げている。

「だから、愛してるってことを」

「そうだったかしら?」

本当に分かっていないらしい彼女に、仕方なく説明する。

「そうだよ。最初だって、恋慕うだの、大事な人だの、そういうことをぜーんぶ先に言われちゃってさ」

「そういえばそうでしたね」

あの時は大変でしたね、と他人事のようにくすくすと笑い出した彼女を横目で睨む。風華からすれば、当時の一人百面相を披露していた喜助の様子が可笑しかったのだろう。だからこの話はしたくなかったんだ、と胸の内でだけ不平を漏らす。

「どうやったって、ボクはアナタに勝てないんだ。もう最初から負け戦に挑んでるようなもんだし」

「そんなに気にしなくても、」

「気にするよ。ボクの立つ瀬がないじゃない」

はぁ、とこれ見よがしについた溜め息に気圧されるように萎縮しながらも、風華は「そうかしら?」とまだ首を捻っている。どうにも彼女には男の矜持というものが伝わらないようだ。「そういうモンなんスよ」と深々と首を上下に振り、再度勢いよく視線をあげた喜助は真正面から風華と視線を合わせた。

「だからね、たまにはアナタに勝っておかないと不公平だと思いません?」

「不公平って・・・そもそも愛情の深さに勝ち負けなんてないでしょう?」

ぱちり。ぱちぱち。
ぱちり。
長い睫毛を上下させて、風華は"聞き分けのない人ね"と言いたげに眉尻を下げる。

「いや、あるよ」

「ありません」

「ある!」

「ありません!」

睨み合うこと数秒。
二人同時に息を漏らした。

「・・・・・・っく」

「・・・・・・ふふ、」

それはそのまま柔らかな笑い声になって縁側に響き渡る。
こんな風に笑いあったのはいつ以来だろうか。
一頻り声をあげた後に、喜助はぱたりと仰向けに倒れ込む。変えたばかりの藺草の匂いが鼻腔を抜けていく。

「あーあ、こんなくだらないことで張り合える相手なんていないよ」

「もう。だから、そもそも、張り合う必要がないって言ってるのに」

「まぁ、そうなんだけどさ。・・・でも、」

よいしょ、という掛け声と共に身を起こして夜空を仰ぐ。

「でも?」

「こんな些細なことでさえ、アナタが居てくれて良かったって、素直に思えるんだ」

見上げた闇色の中に、淡い銀白色が浮かぶ。
真ん丸のその光は、上空から優しく降り注いで、寄り添うように心を落ち着けてくれる。

「これも愛ってことでいいのかな」

また独り言のようにつぶやいた言葉には彼女は何も言わないまま、そっと袖を引かれた。
隣を振り返ると、風華がその穏やかな陽溜まりを称えた瞳を柔らかく細めていた。

「ねぇ、喜助さん」

「なぁに?」

「『月が綺麗ですね』」

「・・・ええ、本当に」

細い糸を手繰り寄せるように彼女の肩を引き寄せる。
二つの人影が一つに重なり、月は雲の向こうへと姿を消した。

りぃん、りぃん。
りぃん、りぃん。

闇の中を、鈴のように澄んだ音色が愛の言葉を静かに木霊させていた。

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