温泉と日本酒
ざばあ、ざばあ。
掛け流しの湯は、檜の風呂桶を常に並々に満たしていて、彼女が入るとその体積分の湯が淵から溢れた。
少し温めの湯は、ゆっくりと浸かる分にはちょうどいい。
せっかくの温泉なのだから、家では出来ない長湯を楽しみたいものだ。
「お湯加減はいかがっスか?」
「喜助さん、」
部屋に備え付けの露天風呂に浸かって、彼女が羽を伸ばしていたところへ腰にタオルを巻きつけながら喜助が入ってくる。『先にどうぞ』と言われたから、一人にしてくれるのかと思ったが、やはりそうはいかないらしい。そもそも客室露天風呂付の宿に行こうと言い出したのは彼だ。最早彼女も最初から諦めている。
喜助が掛け湯をしてから湯船にその身を沈めると、またざばりざばりと桶からそれが溢れ出した。
「ちょっと温めですねぇ。でも、女性にはこのぐらいの方がいいんスかね?」
「ええ」
ちらりと胸元を確認する。
バスタオルを巻いてはいるし、濁り湯も手伝って、彼女の体を隠してくれてはいる。いるのだが、果たしてこんなものに如何程の効果があろうか。
おそらく、まったくもって無意味であろう。
「ところで、」
「はい」
「ココと貸し切り風呂、楽しむならどっちがいいっスか?」
ほら来た。
どうせそんなことだろうとは思っていたが。
「楽しまないっていう選択肢はないんですか?」
「えー、せっかく来たんだから楽しまないと勿体無いじゃない」
「・・・どっちも嫌です」
溜め息と同時に答える彼女に、しかし喜助は意外そうに眼を丸くした。
「おや、どうして?アナタも好きでしょう?」
「な・・・、もうっ!好きな訳じゃありません!大体、」
「え、好きじゃないの?ちゃんとアナタ好みにキンキンに冷やしたヤツ用意してるんスけど」
『いつも貴方が強引にしてるだけじゃない!』と続くはずだった言葉は喉元で止まった。
彼女は眼をぱちぱちと瞬かせて、「あーあ、残念だなァ」と嘯いている喜助を見つめる。
「・・・冷やした・・・?あの、喜助さん、何の話をされてるんですか?」
「何のって、日本酒の話ですけど?」
「・・・日本酒?」
予想とまったく違う答え、どころか予期すらしていなかった単語の登場に思考回路がついていかない。
ほわりほわりと湯気が浮かぶ湯船の中で、喜助はへらりと破顔して立てた人差し指をひょこひょこと左右に振ってみせた。
「ええ。ほら、よくあるじゃないっスか。温泉に浸かりながら日本酒呑むってヤツ。ココか貸し切り風呂ならいい感じに楽しめそうだなと思ったんスよ♪・・・でも、アナタが嫌なら仕方ないっスねぇ」
成る程。それで"冷やした"という話になっていたのか。
しかしそれならそうと最初から言えばいい話で、最も大事な単語を抜いて話し出したということは。
「・・・わざと紛らわしい言い方したのね」
じとりと睨み付けるが、喜助はにやにやといやらしく目尻を下げるだけだ。
「おや。アナタと楽しむっていったら、お酒しかないでしょう?他に何かありましたっけ?」
顎の無精髭を擦りながら、「何を想像されたんスかねぇ?」とそれはそれは憎らしいまでに愉しげに口許を歪める男の顔に、彼女はばしゃりと湯を掛けて立ち上がる。
「知りません!どうぞお一人でお酒でも何でも楽しまれてください!」
「わっ、ちょ、・・・ごめんって!ちょっと待って!」
頭から盛大に湯を浴びせられた喜助は、立ち上がった彼女の腕を引いて湯船に逆戻りさせる。
「冷酒はちゃんと用意してますから付き合ってくださいな」
濡れた前髪を掻き上げながら、喜助は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「今は何もしませんから、ね?」
「・・・"今は"?」
「えーと、じゃあ・・・"日付が変わるまでは"」
「"家に帰るまでは"にならないんですか?」
「ごめん、それは勘弁して」
「もう、本当に仕様のない人」
ここで折れてしまうからいけないのだと分かってはいても、結局彼女はいつも喜助を許してしまう。
それだけ彼に惹かれているのだ。
彼女が深く溜め息を吐き出すと、それを了承の意と受け取ったらしい喜助は湯からあがると、脱衣所の影に用意していたらしいそれを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
とくとくと音を立てて注がれたそれを受け取って、小さく乾杯と告げて盃の縁を軽く打ち合わせる。
湯に浸かり、肩まで温まっている体の中に、よく冷やされた冷酒が流れてくる。
湯気ですぐに温くなってしまわないように、冷凍庫で冷やされていたようだ。冷たさを保たせるために、夏場は彼女も度々こうして冷やすことがある。日本酒は普通の液体のように凍ることはない為に出来ることだ。
「美味しい?」
「はい、とても」
ぱしゃぱしゃと湯が絶えず継ぎ足される音を聞きながら、夜空を見上げると、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
「そう、良かった。ボクもこうして呑むのは初めてだけど、悪くないね」
「そうですね。なんだかとても贅沢してる気分」
「そうっスね。温泉と日本酒を同時に愉しめるなんてね。あー、日本人で良かったなァって思いますよねぇ」
手拭いを頭に乗せて、月を見上げる彼のそんな発言についくすりと笑ってしまった。
「あれ?なんか可笑しなこといいました?」
「ふふ、だって喜助さんは見た目が日本人離れし過ぎてるんだもの。貴方が言うと、なんだかちぐはぐな発言に聞こえるわ」
喜助は「それはお互い様でしょ」と、彼ほどではないにしろ、同じく色素の薄い彼女に、そう言って肩を竦めてみせた。
そんな喜助の肩に、ことりと頭を預けて瞼を閉じる。
本当に贅沢な気分だ。
「どうしたの?」
「いいえ。ただ、幸せだなって思ったの」
「・・・そう」
瞼を閉じてしまったので直接見たわけではないけれど、彼がそっと微笑んでくれたのを気配で感じ取って、彼女は一層満たされた気分に浸っていたのだった。