瑠璃溝隠

「どうぞ、跡さん。粗茶ですが」

「有難う、阿近くん」

阿近が手近なところに置いてあった湯飲みを受け取って、女―――跡 風華が礼を告げてくる。

薄茶色の緩やかな髪を揺らしているその女は、「阿近くんは礼儀正しくて、しっかりしていて、きっと将来素敵な男性になるわね」と何が楽しいのか無駄な軽口を叩いている。
相対する阿近も阿近で、満更でもないのか何故か楽しげな様子が腹立たしい。

揃いも揃って締まりのない笑顔が伝播しているのは、“局長”を務める憎らしいあの男の影響か。

しかし、あの男の影響を受けている割に、この女の警戒心の無さは一体なんなのだ?

ここは『変人の巣窟』と不名誉極まりない名で知れ渡っている場所ではなかったか。

他人の見解など価値はない―――そもそも、ただのうのうと生き長らえているだけの凡愚共に理解できるほど温い研究などしていない。話が通じない、という高尚さが、浅ましい凡愚共からすれば『変人』と賞されていることぐらい理解している。

故に、私にとっては人が寄り付かない場所というのは結果としては願ったり叶ったりな条件でもある。
それはいい。
しかし、目の前の女にとっては最も警戒すべき場所ではないのか。

末席とはいえ、こんな女が席次に着けるとは世も末ではないのカネ。

警戒するどころかすっかり和んでしまっているらしい女に、鼻を鳴らして一瞥を呉れてやる。

「それを飲んだらとっとと帰るのだネ」

しかし、女は眉を潜めて曖昧に微笑む。

「そうできれば良いのですが、生憎と浦原隊長に直接これを渡すよう仰せつかってますから」

まさかそれが終わるまで此処に居座るつもりなのか。
図々しいにも程がある。
まさに、あの男にしてこの女あり、と言ったところか。

「いつお戻りになるかは、ご存知ないですよね?」

「フン。そんなこと、私が知るはずないだろう」

女の隣では阿近もゆるりと頭を降っている。
女は「ですよね」とまたも曖昧に笑っている。
何故私がいちいちあの男の所在など把握しておかねばならんのカネ?目障りで仕方がないというのに。

そんなことよりも、一刻も早く研究に戻らなければ。

凡愚共は無駄に時間を余らせているようだが、生憎と優秀勝つ明晰な頭脳を持って生まれた私にはそのような暇は存在しない。
寧ろ幾ら時間があっても足らないぐらいなのだから。

全く、何故選ばれし才を持った私が凡愚共よりも忙しなくせねばならないのかネ。
凡愚共の、無駄で無価値な時間こそ、有益に使われて然るべきであろうというのに。

「まあ待ちたいだけ待つがいいヨ。奴に会えるのが明日か、いや、来週になるかはしらないがネ」

研究者と言うのは、一度研究所に籠ってしまえば平気で何日間も外界との接触を経ってしまう生き物だ。
あの口喧しい副官がどれだけ戸口で喚こうとも、数日間籠ることなど侭ある話だ。

それだけ言い残して、さっさと研究所に戻ろうと踵を返した私を、女が呼び止める。

「行くヨ、阿近」

「あ、涅さん、待ってください」

「何かネ?見ての通り私は多忙なのダヨ。キミと違って」

何処へ出掛けたかなど知る由もないが、あの男――浦原喜助は隊首室兼己の研究室の鍵だけはきちんと閉めた上で行方を眩ませているようである。

「もし良ければ、一緒にお茶菓子を召し上がりませんか?」

女の提案をはね除けるつもりだったが、次の言葉に足を止めた。

「涅さんも、だいぶお疲れなのでしょう?」

「何故、そう思う?」

僅かに目を細め、警戒するこちらの様子に気付いているのかいないのか。
女は胸の前で両手を組んで、「私の杞憂ならいいのですが、」と前置きした上で窺うように首を傾げてみせた。

「先日お会いしたときよりも、瞼が重そうな顔をしてらっしゃるから。だから、あまり休憩を取れていないのではないかと思いまして」

女はこちらの返事を待つことなく、「丁度、茶菓子をいただいたところなんです」と相好を崩して懐紙の上に茶菓子を広げ始めた上に、訊いてもいないのにだらだらと無駄な捕捉を説明し始める。

「私のような一隊士には想像もつかないほどに、大事で、とても高尚な研究をされているんだと思います」

身勝手に続く文句を、何故か仕方なく聞いていた。
あの男を出し抜く手掛かりでも求めているのだろうか。いや、あり得ない。この女から得られる情報など皆無なはずだ。

「でも、だからこそ、きちんと休息の時間も設けた方がいいのではないでしょうか」

それなのに何故私は、この女の話をこうも大人しく聞いている?

「涅さんのその素晴らしい研究を実現させる為にも」

考えても拉致があかないことが腹立たしい。
仕方なく無言で向かいに座ってやると、女は瞬きを繰り返した後に何が楽しいのか、弾けるような笑顔で、嬉しそうに「良かった。私一人で食べるには少し貰いすぎてしまったものだから、」と頷いてすらいない阿近の分まで用意している。

「丁度脳に必須な栄養を補給しようと思っていたところに、偶々キミが此れを持ってきたから食べるだけだ。キミに言われたからではない。そこを勘違いするんじゃないヨ?良いカネ?」

「ええ。分かってます」

どうしてか女の思うような展開になっていることが気に食わない。
それを回避しようとして告げた言葉が無駄に言い訳がましくなってしまったことに気付いて更に不快さが募る。

ふふ、と女は口元を綻ばせて、懐紙に載せた茶菓子を薦めてくる。
藤の花を模した練りきりは、評判の茶屋のものだった筈だ。研究員の幾人かが話題にしていたことがある。

「ここのお菓子は、甘過ぎないので男性でも食べやすいと聞いてたのですが。どうですか?」

「・・・旨い、です」

毒味のつもりか、私が手を出すより先に一口で平らげてしまった阿近が何度も首を上下させている。
毒味役を買って出ることは褒めてやりたいが、絆され手をしまっては意味がないだろうに。
腹心の部下と呼ぶにはまだあと数歩足らぬようだ。


副長も食べてみてください、と言わんばかりに見上げてくる部下に倣い、半分に切り分けたそれを口に入れる。
舌の上に乗せると、甘さがじわりじわりと蕩け、その糖分が血に混じり脳に運ばれていくのが分かる。

―――嗚呼、気に食わない。非常に、気に食わない。

なんだってこんなに不愉快な思いをしなければならないのか。
何故、こんな女に気遣わなければならないのか。この私が。
この私を誰だと思っているのか。
その辺りに屯(たむろ)している隊士や研究員と同等の存在として見られている気がする。
馬鹿な。この私が見下されているというのか。

あの男はまだか。

「どうもキミは状況が良く分かっていないらしいネ」

「状況、ですか?」

白衣の袂に手を忍ばせ、小瓶に手を掛ける。
先日完成したばかりの細胞を倍に分裂させる新薬を、目の前の女で試してやれば、あの男はどういう反応をするだろうか。

女が茶菓子を口に運ぶ手を止めて、怪訝そうに首を傾げている。
その女が使っている湯呑みに手を伸ばしかけたところで、聞き慣れた間延びのしたあの男の声がした。

「風華サン、お待たせしましたァ、・・・て、珍しい組み合わせですねぇ」

「浦原隊長!」

女は嬉しそうに振り返るなり、書類を渡している。それに目を通しつつ、彼の男は「で、三人で何話してたんスか?」と首を傾げる。

「別に何も話していないヨ」

こちらの言い分は俄に信じがたいらしい男は、傍らの女に視線を向ける。
女も「お茶をいただいていただけです」と答えると、印をもらった書類を片手に立ち上がる。

長身の男が名残惜しむかのように、女の小柄な背中が遠ざかるのをいつまでも見送っていた。
その様が余りにもみすぼらしく、つい、ため息が溢れた。

「随分といいタイミングで姿を見せたものだネ、局長殿」

「さて、何の話デショ?」

―――白々しい。

「何をそこまで入れ込んでいるのか、私には皆目と検討もつかないが、」

女が出ていったばかりの戸口に一度視線を送ってから、男を見上げる―――長身のくせに下駄なんぞ履いて上背を増しているから、いちいち見上げなければならない。

「一度、あの女を解体でもすれば分かるものかネ?」

そうすれば、あの警戒心のない行動も少しは解明出来るだろうか。

「涅サン、」

―――じわり、
足元から凍てつく冷気と絡み付く。

「その冗談は、笑えないな」

冷めた物言いにただただ驚いた。
空間を締め上げていく霊圧がその言葉をより重くする。
傍らに立つ阿近が巻き添えを喰い、哀れにも硬直している。
晒されたそれは、いつもの薄ら笑いで覆った仮面ではない。
こんな顔も出来たのか。

およそ杜撰であり、怠惰であり、奔放である彼の男が、その実、誰よりも計算高く、用心深いことなど火を見るより明らかだ。
そんな男の素顔など、万人も拝むことはないのではないかと思っていたが、なかなかどうして。

「フン。心配せずとも、あんな女には興味がないヨ」

「あんな女って・・・」

心外だとばかりに眼を丸くする男に背を向けて研究室へ向かうと、何故か男もからんころんと下駄を鳴らしながらついてくる。

「風華サンて、すっごい美人じゃないですか。気立てもいいし。ねぇ、阿近サン?」

「俺は、嫌いじゃない、です」

「そもそも何故女の相手をしようというのか理解に苦しむヨ。女というのは頭が悪く碌な仕事も出来ない、その癖口ばかり達者で難癖ばかり付けてくる面倒な連中ばかりではないかネ?」

あの女は多少まともな部分がなくもないが、ほんの僅かのことだ。
所詮女は女でしかない。

「何故、わざわざあんな面倒な生き物を手元に起きたがるのか」

「いやいや、それが寧ろ可愛く思えてくるんですって」

「惚気なら他所でしたまえヨ。キミと違って忙しいのでネ」

「しかもね、」

からからと腹立たしい笑い声をあげた男は、目と口角を歪めて大層気味の悪い笑みを浮かべてみせた。
―――そう、いつかのように。

「その“面倒な相手”が、徐々に自分色に染まっていってくれる様子を眺めるのも、なかなか乙なもんっスよ」

「・・・精々、足枷にならないように気を付けることだネ」

「ご忠告、痛み入ります」

くつくつと嗤う耳障りな声を背後に残し、阿近を連れて副長として宛がわれた研究室へ戻る。

嗚呼、矢張、この男は気に食わない。

この男に見初められた女も含め、気に食わないことばかりだ。
本当に―――。



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瑠璃溝隠(ルリミゾカクシ):ロベリア
敵対
高貴な女性
いつも愛らしい
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