追憶の歯車

遠く、鈍色の空が光る。
低く唸りをあげたそれが、暗雲を連れてじりじりと歩み寄る。
はっと気付いたときには、それは空を割り、大粒の滴で屋根を叩き付けていた。

ぼたぼたと大粒の雨が幾つも降り注ぎ、アスファルトは濃灰色に染まる。
じっとりと湿った空気が部屋の端から這いずってきた。
そんな重たい空気をもはね除けるように、普段から険しい目元をさらに険しくした少年が叫ぶ。

「ヒマだー!なんかすることねェのかよ!」

「・・・商品並べてって、言われてる・・・」

黒髪の少女が店先を指差す。
しかし少年は聞こえなかった振りーーもしかすると、本当にただ聴こえなかっただけかもしれないーーをして、風華の元へ転がってくる。

「ヒマだー!!なー、風華姉、遊ぼうぜ」

雨のせいで外に出られないことが退屈なのだろう。
居間の畳の上でごろごろと転がってきた少年を宥めるように彼の額に手を置いた。
撫でると『子ども扱いするな』と怒られるので、そっと手を添えるだけ。子ども扱いも何も、そのまま子どもなのだから、そんな扱いになってしまっても仕方ないと思うのだが、年頃の男の子にそのようなことを言うべきでないのだろう。

「そうね、それならお風呂掃除してくれる?」

喜助と鉄裁は今日も出掛けていて、風華達は留守番組だ。
庭先に咲く紫陽花が大量の雨水を受けて、花弁一つ一つに滴がついては落ち、落ちては新な滴がついてゆく。
彼等はちゃんと傘を持っていっただろうか。
色鮮やかに咲き誇るそれを一瞥して、風華は室内で駄々をこねる少年へと視線を戻した。

「ハァァー!?それのどこが遊びなんだよ!!」

風華の提案に、案の定、彼は飛び出さんばかりに目を見開く。後ろでは少女もはらはらと見守っている。

「あら、ごめんなさい。でもいい特訓にはなると思うのよ?」

「特訓?」

「そう。例えば、一生懸命タイルを磨くでしょう?」

起き上がったジン太に「一緒に想像してね」と笑い掛けると、『風華には素直』という喜助の言通り、彼は素直に頷く。

「おう」

「そのとき、ジン太くんは体のどこに力をかける?」

「どこって、腕だろ。こうやってさ、」

少年は畳の上に腕をついて、肘を軽く引き、もう一度伸ばす。
伸ばす、引く、伸ばす、引くを数回繰り返した後、今度はカッと目を見開いて拳を握った。

「そうか、分かったぜ風華姉!バットを振る腕を鍛えようってんだな!?」

「そうよ。さすがジン太くん、頭がいいわ。そうやってこっそり鍛えておいたら、きっと皆びっくりするんじゃないかしら」

こっそり、というところを敢えて強調するように一拍置いて語る。風化の思惑通り、ジン太はそこに注目し、『閃いた!』とばかりに拳を握ったまま立ち上がる。

「秘密の特訓てワケだな・・・!!?」

「そうそう」

「おっしゃァ!今に見てろよ!!」

言うが早いか彼はどたどたと走って風呂場へと向かう。
それを見送っていた雨が「・・・風華さん、策士・・・」と呟くものだから、風華はくすりと笑う。

「ふふ。側にいる人があんな人だから、ね」

彼の耳に入ったら怒られてしまいそうな言い分だが、事実そうなのだ。あるときは褒めそやし、あるときは弱味に漬け込んで、相手を巧く乗せてしまうのだ。喜助のように言葉巧みに乗せることは難しいが、ジン太ならなんとか乗せられる。
片目を瞑って「人の使い方、私も覚えちゃった」と肩を竦めてみせれば雨は頬を染めて親指を立てた。

「・・・いいと、思います」

二人でくすりと笑いあっていると、風呂場から「何してんだよ!オマエも来い!」と叫ぶ声が反響してきた。風華と風呂場を数回見比べてから、「・・・行ってきます」と雨はとたとたと風呂場へと向かう。
年下の少年だから、弟のように思っているのかもしれない。
放棄を振り回されたり、髪を引っ張られたり、夕飯時におかずを取られたり、部屋のスペースの殆どを奪われたりと、散々な扱いを受けているようだが、たとえどれだけ邪険にされても彼女はちゃんと面倒をみているように思う。
兄弟姉妹の居なかった風華としては、微笑ましいことだ。多少、遣りすぎだと思うことがないではないが。

「・・・雨、止みそうにないわね」

子どもたちが居なくなると、部屋の中ががらんとしてしまった。
ばたばたと雨樋を叩く音は、一層の激しさを増すばかりだった。梅雨時の長雨というよりは、夕立のようだ。

縁側に昨夜から干していた洗濯物を取り込む。
触れた指先にしっとりと湿気が絡み付く。朝干したばかりのモノはまだまったく乾いていない。
畳んでいると、奥から雨音に負けないほどの騒々しい放水音が谺してきた。「もっとシャワー出せって!このシャワーにも負けない筋力を鍛える!」と叫ぶ少年の声がして、風華は声を張り上げた。

「お水、使いすぎちゃだめよー!」

おそらく聞こえていないだろうとは思うが、釘は差しておく。まだ水遊びには早いだろう。風邪を引かないとも限らない。
何か暖かい飲み物でも用意しておこうと、風華が洗濯物を畳み終えて湯を沸かしていると、玄関の引き戸が開かれる音がした。

「喜助さん、お帰りなさい」

一旦台所を後にして戸口へ向かう。
やはり傘を持っていなかったようで、彼の羽織と帽子の色がところどころ雨に濡れて変色していた。
風華が「すぐお風呂にしますか?」とタオルを差し出すと、喜助は僅かに顎を引いただけで黙したままだ。

「・・・喜助さん?」

様子の可笑しい喜助に、どうしたのかとその頬に手を伸ばそうとしたときだった。

ーーーーー空気が、震えたのは。



- 1/11


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -