百年の恋の唄
気付けば畳に彼女の体を組み敷いて、覆い被さるように唇を重ねていた。
愛してる、なんて言葉では足らない。
何千、何万回告げようとも、それだけでは胸の内にある愛しさを伝えきれない。
だから言葉にしない。言葉にしたってどうせ足らなくなって、耐えられずに、結局こうして自身のくだらない欲求を押し付けるだけになってしまうのだ。
「風華、」
「・・・んぅ、」
薄く開いた唇の合間から舌を滑り込ませる。
行儀よく並んだ歯列に順になぞる。一本、また一本と彼女の肌に触れるときのようにそれを愛撫する。
「ぁ、」
向きを変える為に重ねた唇が僅かに離れたその隙間から、甘い声が漏れる。
逃げ惑う舌先にちゅうと吸い付いて、それを解放する。
ぷつりと、透明な糸が切れた。
はぁはぁと浅い呼吸を繰り返す風華が、ちらりと喜助の背後へと視線を向ける。
「もしかして、それ、読んじゃったの?」
畳の上に転がされたままの彼女の想いが詰まった手帳。
覆い被さった喜助をじっと見上げるその瞳から逃れるように視線を逸らす。
こういうところが、よくないのだろう。すぐに誤魔化そうとしてしまう癖。
「ハイ・・・悪いとは思ったんですが、」
「ふふ、構いません」
いつか見付かるだろうなとは思ってましたから、とふわりと微笑んだ風華は、喜助の首に腕を回す。
「・・・風華サン?」
「喜助さん。私ね、貴方が居てくれるからーーーーー」
濡れた琥珀の双眸が煌めいて、ひたりと見据える。
「生きたいって、思えるのよ」
「どういう、」
唐突に始まった彼女の話を掴みきれず、喜助はただ呆然と風華を見下ろす。
「母が居なくなって、父も居なくなって。だから、任務についている内に、いつか戦場で死ぬのかなって。それも悪くないのかもって思ってたの」
風華はなんでもないことのように淡々と語る。
ひたりと見据えていたと思った瞳は、喜助ではなく、どこか遠くをさ迷っていた。それは、永劫、喜助が知り得ることのない彼女の過去。
「でもね、喜助さんに出逢ってから、たくさんのことを知ったわ。他にもお付き合いした人はいたけど、そのときはきっと分かったつもりだったの」
「何を、ですか」
「誰かを、たった一人の誰かを心から愛することを」
ほう、と息を吐いて「でも、全然違ったわ」と困ったように彼女は肩を竦める。
もう一度風華の瞳がこちらを見る。
結んだ焦点の先は、一人の男。
「無くすことが怖い。置いていかれることが怖い。隣にいたい。いつだって笑っていてほしい。傷付いたのなら慰めてあげたい。私にもてるものならすべて貴方に捧げたい。体も心も、命さえも。他の誰にもあげたくない。貴方だけに捧げたい」
首に回されていた彼女の小さな掌が、喜助の薄色の髪に触れてそうっと鋤いていく。
慈しむような、あやすような、そんな指先の動きに思わず瞼を閉じかけてしまう。
「ーーーーー全部、貴方に出逢ってから教えられた気持ちなの」
ひっそりとした彼女の息遣いと、自身の拍動。
かち、こちと秒針の振れる音だけが暫く空間を満たす。
「それを言うなら、ボクの方だ」
風華の額を撫でる。
前髪を流すように撫でると、風華はすっと眼を細めた。それは子猫が甘えるときの仕草にも似て見えた。
「笑っていてほしい。ボクだけを見てほしい。誰にも渡したくない。アナタ以外もう何も要らない。ボクだって、全部、アナタに教えられたことだ」
こんな感情、昔はなかったはずだ。いや、あったのかもしれないが、感情を制御できない程に溺れたことはなかった。
こんなことは、彼女だけだ。
「・・・良かった」
「何が?」
「ふふ、内緒」
「え」
何故か彼女は突然に可笑しそうにくすくすと笑い出した。
そもそも何が『内緒』なのか。
『良かった』ことは、二人とも同じようなことを考えていたことだと想定出来るが、時折想定した以上のことを考えているから分からない。
まあ彼女が幸せそうならそれで構わないのだが。
「だって、手帳が見つかっちゃったんだもの。新しい隠し事がないと貴方に厭きられちゃうかもしれないから」
「まーだそんなこと言ってるんスか」
いつまでも畳の上に組み敷く訳にもいかず、彼女の体を起こしてやりながら、いつぞやのやり取りを思い起こして喜助は眉根を寄せた。
「そんなことしなくても、ボクは十分にアナタの虜ですって」
「この先もそうだって誓えます?」
「誓えますよ」
「ふふ、その言葉、信じますよ?」
くすくすと口許を隠して笑う風華の髪を撫でる。
たわわに実った稲穂のように艶やかに揺れる薄茶の髪は、しゅるりしゅるりと指の合間から抜け落ちていく。
「ねぇ、喜助さん、それとって?」
「はいな」
喜助が腕を伸ばして、厚みのあるそれを彼女に手渡すと、風華はさらさらと何事か書いてから、広げて見せた。
『喜助さん、百年も変わらず愛してくれて有り難う』
『私も変わらず貴方を愛しています』
喜助が目を見張ると、彼女はにこりと笑う。
上に書かれた一文は既に書いてあったものだろう。
その下に書かれたものが、今書き足されたもので、まだインクが乾ききっておらず、室内の灯りで艶めいていた。
破顔した風華は自身の唇に白い指先を立て、次いで喜助の薄い唇にちょんと押し当てる。
「・・・っとに、アナタには敵わないな・・・!」
「きゃあっ」
昼間だなんだと気遣うのはもうやめだ、と慕情と劣情と羞恥で半ば自棄を起こした喜助が彼女を押し倒すのと、なかなか降りてこない風華を案じた鉄裁が仁王立ちで襖を開いたのがほぼ同時で、この後の展開について語るのは野暮なので控えておこうーーーーーとは、黒髪の少女が黒猫へと宛てた手紙の結びであったとかなかったとか。
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