Valentine's day!

「綺麗・・・これ全部チョコレートなんですか?」

差し出された一輪の茶色の薔薇を繁々と眺めながら、風華は小首を傾げる。
崩れないように透明なプラスチック製の箱に入れられたそれは、確かに一見するだけでは菓子とは思えないほどに精巧に作られている。

「らしいっスよ。花びらから茎から葉っぱまでぜーんぶ。あ、勿論箱は食べられませんけど」

たわいもない冗談を交えて軽妙な口調で告げると、彼女はくすりと笑って「なんだか食べちゃうのが勿体ないですね」とまた手元の花へと視線を移す。

「気持ちは分からないでもないですけど、そんなに日持ちするものでもないから早く食べちゃってくださいよ」

どれほど精巧な作りといえども食品に変わりはない。
後生大事に取っておくものでもない。
風華もそれは分かっていると言うように、首を縦に振ると透明な箱に手を掛ける。

「そうですね。せっかくだから今いただきますね」

「ドーゾ」

淡い桃色のリボンがしゅるりとほどかれて、箱の中からそれが姿を表す。
ほう、と小さく息をついてしばらく眺めたあとに、風華はその花弁を摘まむ。
小さな唇の奥にそれを運び、瞼を臥せる。

「・・・どう?」

「ん、美味しい、と思いますよ。・・・私には、ちょっと甘いですけど」

女性にしては珍しく甘い物があまり好みではない彼女には、少々甘かったようだ。ダークチョコレート使用と書かれたものを選んだつもりだったのだが。

一枚、また一枚と花弁を詰まんでは、それを無心で口に運ぶその仕草は、幼い子どものようで、つい笑ってしまう。
きょとんとした様子で風華はまた首を傾げる。
こういうところは相変わらずだ。

「喜助さん?」

「何でもないよ」

「・・・何か思うところがあるなら、仰ってください」

「だから、何でもないって」

「貴方がそう言うときは何かあるときでしょう?」

「気にしないで。大したことじゃないから」

くつくつと笑って答えようとしない喜助に一瞥を呉れて、風華は「もう、やっぱり何かあるんじゃない」と言いながらふいと顔を逸らす。
その横を向いた風華の顎先に手を掛けて、こちらを向かせる。
ふわり、と甘い香りがした。
菓子の香りではない。
これは、彼女の自身の馨だ。ーーー何よりも喜助を惑わすもの。

「・・・喜助、さん?」

鼻先が触れあいそうな程の近さで、ひたりと彼女を見据える。
風華の指先の熱で、くたりと萎れ出した一枚の花弁を奪う。
その花弁を彼女の唇に押し当てる。

「ん、」

柔らかな唇を、茶色の膜が覆ってゆく。

「・・・いいね。今度、茶色のルージュも探しにいこうか」

「茶色なんて、普段使わないわ」

風華は呆れたように肩を竦めながら、塗られたそれを指先にとっては舐め取る。
己の指先を口に含むその仕草もやはり幼い子どものようで、それでいて、艶めいた唇の赤さは成熟した女のそれだ。

「・・・本当、アンバランスですよねぇ」

触れてしまえば、その均衡をあっさりと崩してしまいそうなほどにの危うさ。それが彼女の魅力なのだろう。
それにしたって、アンバランス過ぎやしないだろうか。

「いや、違うな」

「何がですか?」

風華は怪訝な顔でじっとこちらに眼を向けてくる。

「ねぇ、風華」

「はい?」

「茶色の薔薇の花言葉って知ってます?」

「茶色、ですか。・・・確か、"渋い"、"落ち着いた"、"影のある"でしたよね?」

「うん。でも、もうひとつ、大事なのを忘れてますよ」

腰を抱き寄せて、まだチョコレートが薄く残ったままの風華の唇を食む。自身の薄い唇で、その小さくて柔らかな、少し厚みのある唇を飲み込む。
これほど側にいても、まだ彼女の全てを把握しきれていないだなんて。
掴みきれないからこそ、未だに魅力を感じ続けているのかもしれない。

「"ミステリアス"。・・・きっと、アナタみたいな人に言うんでしょうね」

「"不可解な"って、変わり者ってことですか?もう!喜助さんに言われたくないわ」

「えー、酷いなァ」

「酷いのはどっちですか」

どうやら、風華は違う意味合いで捉えているらしいが、訂正する必要もないだろう。
なぜなら、風華の言うことも一理あるからだ。
自身のような変わり者を愛してくれるなど、彼女も変わり者である証だろう。

「ごめんごめん。機嫌直してくださいよ、せっかく愛を語る日なんスから」

「・・・もう、本当に仕様のない人」

深く息を吐き出して、風華は喜助の胸板に体を擦り寄せて瞼を閉じる。
そんな彼女の背中に腕を回し、喜助はまたその柔らかな唇を味わう為にそれを寄せた。



*******

重い瞼を開けて、最初に視界に映ったのは艶やかに波打つ長い髪だった。

向かい合って眠っていたはずの彼女が、寝返りを打ったのだろう、自身に背を向けている。
眠りから覚めて一番最初に視界に映ったものが風華の穏やかな寝顔でなかったことが気に入らない。
理由なんて特にない。
"特にない"、だなんてまったくもって、らしくない。
喜助は一人くつくつと喉を震わせてから、彼女の身体を枕にしていないもう片方の腕で抱き寄せる。

「風華」

すうすうと深い眠りについている彼女は吐息を漏らすだけで、まだ瞼を閉じている。

「ねぇ、起きて、風華」

しゅるりしゅるりと髪を撫でる。
窓から射し込む光は、まだ冬の淡く弱々しいそれだ。
その淡い光に照らされて、彼女の薄茶の髪は、黄金色の光を放つ。まるで収穫期の稲穂のようだ。
我ながら随分と季節外れな感想だな、と一人苦笑を浮かべて喜助は風華の耳朶に唇を寄せる。

「ボクを見て、」

「んぅ、・・・?」

ふるり、と長い睫毛が震えてゆっくりと持ち上がっていく。

「・・・きす、け、さん・・・?」

起き抜けなせいか、舌ったらずなその音がこそばゆい。

「風華、」

「な、ぁ、に・・・?」

さすがに起こすべきではなかったか。
まだ随分と眠そうで、覚醒するにはもう少し時間がかかりそうだ。

「ごめん、何でもないよ。まだ寝てなさいな」

「ぅん、」

また睫毛がゆっくりと降りて、その目元に長い影を落とす。
しかし、突如風華は首を伸ばして喜助よ顎先にその桜色の唇を押し付けてきた
彼女は唇を離すとふわりと微笑んだ。

「・・・っ!?」

硬直したままの喜助の腕にまた頭を乗せると、彼女は彼の首筋に擦り寄ってきた。

「風華っ、」

まさかこのまま寝入るつもりだろうか。
ここまでしておいて、それが許されるとでも思っているのか。
風華に覆い被さろうと、喜助がその身を起こしかけたときだった。

「・・・ふふ、くすぐったいわ、おとうさま、」

「え、」

喜助は今まさに抱き寄せようとしていた腕をぴたりと止めた。いや、正しくは止めざるを得なかった。
幼子がむずがるように口許をふにゅりと緩めて、それはそれはあどけない顔で幸せそうに寝入っている。

「・・・それはないでしょ?・・・あんまりっスよ、風華」

早くに二親をなくした彼女が親の愛情に餓えていることは知っている。
母親代わりになる人物がすぐ側にいたため、女親はまだしも、男親の愛情を特に求めていることも。
それでなくても女の子はおよそ父親に似た人を求めるという。尚のこと、彼女が恋しいと夢に見るのは仕方がない。
けれど、その夢はいつも別離の夢で、好きではなかったという。

『今は違うんスか?』

『ええ。いつもはぐれてしまったところで目が覚めるのだけど、喜助さんに出逢ってからは、いつもちゃんと家に帰れるの』

『へぇ』

『喜助さんが私の手を繋いでいてくれるからかしら』

そう言って少し恥ずかしそうに微笑んでいた彼女をよく覚えている。
満ち足りたようなその笑顔を、守りたいと強く思ったことも。
だからこそ、喜助は今、手を伸ばすことが出来ないでいる。
どう考えても今風華が見ているのは幼いときの夢だ。しかもこれまた幸せそうに口許を緩めている。こんな満ち足りた寝顔を見せられてそれを壊してしまえるほど、喜助も野暮ではない。大体、今しがた余裕ぶって"寝てなさいな"なんて口にしたのはどこの誰だ。
もしや先程の顎先へのキスも、父親との戯れだったのだろうか。

はぁ、と深く溜め息をついて布団に背中を預ける。

「参ったなァ・・・」

本当に参った。
風華の夢を、幸せな家族団らんを破壊する気はない。
しかし、この生理現象はどうしたらいい?
天井に向けていた視線を、眼球だけを動かして隣を見やる。
こちらに身体を向けて眠っている穏やかな風華の寝顔と、それからその白い首筋から鎖骨、その下の柔らかく盛り上がった柔肌に、そこに咲き乱れる赤い花。
はっきりいって目の毒だ。
それでなくても男には色々あるというのに。
ああ、そういえば、チョコレートにも媚薬効果があるとかないとか。それだ。それのせいに違いない。
夜半に食べたチョコレートもまだ消化されきっていないに違いない。食べてから体に吸収されるまで数時間から半日として、その効果が持続する時間を"x"とする。その時間に、さらに彼女の香りが掛けられて2倍になるーーーいや、待て。そもそも単純な倍数でいいのだろうか。そこには自身の風華への愛情やら欲情やらがたっぷりと加算されているはずだ。そう仮定すると二乗は下らない。なんなら十乗ぐらいされているのではないだろうか。振り幅のあるそれを"y"としよう。さらに今の風華の行動やら、想定外の要因が加えられるとする。その不確定要素を"z"としてーーーー。

「・・・って、馬鹿か、ボクは」

一体全体、何をやっているのだか。
チョコレートのせいにしたところで、意味はない。
喜助はひとりごちて天井を仰ぐ。

「早く起きてくださいよ、風華サーン・・・じゃないと、」

眼を逸らしたところでもう無駄だ。
先程顎先に触れた柔らかな唇の熱と、甘い花の香りが喜助の内にある獣を呼び起こしてしまっていた。
彼女が背を向けて寝ていただけのことで、"気に入らない"と無理に起こそうとした罰だろうか。
それ程にこの女性が愛しいと思うことは、そんなに悪いことではないはずなのだが、如何せん、今はタイミングが悪いように思う。
誰かに言い訳するように問答を続けながら、喜助は目元を片手で覆う。

「じゃないと本気で・・・寝込み、襲っちゃいますよ?」

ーーーお願いだから、これが冗談で済むうちに。
喜助の願いが届いたかどうか、それはまた別の話である。


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