僕に触らないで
遅刻魔の苗字名前と初めて話した日から数日が過ぎた。
あの日以来、僕は彼女と話す機会が増えた気がする。
相変わらず遅刻寸前を繰り返す彼女とは、毎朝嫌でも顔を合わせる事になるからだ。
それ以外にも何が面白いのかは分からないが、彼女がほぼ毎日応接室に顔を出すようになったためでもある。…まったく変わった子だよ、君は。
そんな生活を悪く思わない僕もいる。
僕も少しずつ変わってきているのだろうか。
「あ、雨か…」
ポツポツと水溜まりに落ちる雫は、次第に大降りになっていった。
僕は仕事をさっと片付けて鞄を漁る。
「…ない」
僕とした事が折り畳み傘を家に忘れたようだ。
さて、どうしようか。
「雲雀さーん、入って良いですかー?」
「まあ、良いか」
「まあって何だ!」
「煩い、もう少し静かに入れないの?」
「すみません」
そう言って僕と向かいのソファに座る苗字。
心なしか彼女は機嫌が良さそうだ。
雨が止むまでの時間潰しくらいにはなるかな。
「何か用?」
「今日はですね…」
「何だ、あるのか。無かったら帰ってもらう所だったよ」
「ひっど!!」
「なんて冗談だけど。で、用は何?」
「ああ今日はですね、調理実習でこれ作ったんですよ」
「…ハンバーグ?」
「はい、前好きって言ってましたよね」
確かにハンバーグは好きだ。
ただそれを彼女に言った記憶はない。
僕でさえ忘れていた、そんな些細な事まで憶えているとは。
「それ、本当に食べれるの」
「失礼ですね!ハンバーグなんて得意料理ですよ!」
「…へえ」
「何すかその疑いの眼差しは!毎日晩ごはん作ってるんで大丈夫ですから!!」
「まあ、頂くよ」
「6時間目が調理実習だったんで冷めてはない…と思います」
僕はハンバーグを口に運ぶ。
成程、苗字の言う通りハンバーグは冷めていない。
授業後すぐに来たのだろうか。
自然と口角が上がるのに気付くと、僕は平静を装うと同時に、それを不思議に思った。
僕は今、何で笑った?
前もあったな、彼女がいる事を嬉しく感じた時…何故?
当の苗字を見てみると、彼女は期待と不安の入り交じった表情で此方を見ている。
「あの…お味はどうですか?」
「…良いんじゃないの」
そう答えてやると、彼女はパッと顔を明るくした。
美味しいのは事実だしね。
そしてハンバーグを着々と口に運ぶ僕を見ている彼女は、何処と無く嬉しそうだ。
「ご馳走様」
「お粗末様でした。あ、お皿ください」
「ん」
そう言って皿を手渡すと、少しだけ指先が触れ合った。
「!」
「どうしました?」
「…何でもない」
「私、お皿片付けて来ますね」
「…うん」
僕は自分の指先をまじまじと見てみた。
普段草食動物を咬み殺す時はトンファーを使う為、触れる事に慣れていない指先。
その指先が何となく熱い気がした。
…変なの。
「雨、止まないな」
「雲雀さん傘持ってないんですか!?」
「煩い、もう少し静かに入ってって前も言わなかった?」
「言われました…」
ふと指先から窓に視線を移すと、毎度の如く騒がしく入って来る苗字。
何、このデジャヴ。
どうやら彼女は皿の片付けを終えたらしい。
「で、傘持ってないんですか?」
「偶然ね」
「貸しますか?」
「君が濡れるだろ」
「雲雀さん風邪引きますよ」
「僕は引かないよ」
「引きますよ」
「「…」」
お互いに引かない空気を打ち破ったのは苗字だった。
「じゃあ一緒に帰りますか?」
「は?」
「傘が無いって聞いてほっとく程の神経持ち合わせてないですし…風邪引かれたら困りますし」
「何言ってるの、咬み殺…っ!」
僕の口を手で塞ぎ、彼女は折り畳み傘を突き出す。
「続きは言わせません、これが最大の譲歩です」
「…」
取り敢えず手を退けろ、という意を込めて僕は彼女を軽く睨む。
「睨まないでくださいよ、ああ恐ーい」
「思ってないでしょ」
「…そろそろ昇降口行きますか!」
「僕を無視するなんて良い度胸だね…」
僕はわたわたと応接室を出ていく苗字の背中を見て、そっと溜め息を溢すのだった。
抑えられた口元が熱を帯びていたのは言うまでもない。
***
そして僕らは、何となく無言のまま帰り道を歩き出した。
彼女が傘を持つと低い為、傘は僕が持っている。
隣にいる彼女と肩がぶつかる度に、何故か胸の辺りが苦しくなった。
そんな矢先、彼女が口を開く。
「雲雀さん」
「何」
「これって群れてるのに入らないんですか?」
「そう思うなら最初から一緒に帰るとか言わないでよね」
「あ、ですよねー…」
「まあ、」
「?」
「ハンバーグ美味しかったし…今日は特別」
そう言った後に、僕らしくないな、なんて思って苗字からふいっと顔を逸らす。
その時彼女がくすっと笑い、また肩がぶつかった。
何だかそれが凄くもどかしい。
手を伸ばせばすぐ触れる場所に居る君。
とても近い筈なのに手が届かない距離。
どうにも出来ないこの気持ち。
そうしているとまたぶつかる肩。
それで再び胸の辺りが苦しくなる感覚。
「ねえ君」
「何でしょう?」
「…」
僕に触らないで
─熱い─「同じ傘に入ってるから無理ですよ」
「知ってる、言ってみただけ」
2012/11/10
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