- ナノ -


貴方は

世界さえも消え去って


その笑顔に、まるで生きているようだと、頭の片隅で感じた。
彼を目撃した直後、包帯を大量に巻いた彼を抱き留めた時、彼はとても軽かった。まるで、身体の中身がないように、とても軽量だった。血体術が使えないと分かったとき、彼は未だ重体なのだと信じた。彼ほどの使い手がそうであるはずがないとは気付いていた。彼は真っ青な顔色のままずっと過ごし、顔色が血色のよい色に戻ることは一度もなかった。甘いにおいは、嗅いだことのある臭いだった。死体がよく発する臭いだった。素人でも、よく視れば分かるものだ。人間でない者の姿は。

「しかし、君は……! 君は意思があるではないか!」
「ああ。俺も最初は驚いたよ。たぶんだけど、血体術のお蔭だろうな」

ふむ、と手を顎に当てて持論を述べる彼は、深刻そうな面持ちを一切していなった。そんな顔をしているのは私だけだ。彼の瞳に映る私一人だ。
眩暈がする。彼の美しかった左眼がどうなっているか。想像が出来ない、してはいけない。

「あの吸血鬼と闘った時、心臓をくり抜かれてな。その後戯れに血を吸われたんだよ。随分不味かったみたいでな、意識があったんでざまぁみろって思ったんだが、そのまま池に落とされたんだ」

彼が消えたあの森向こうの村がまざまざと蘇る。村の近くには大きな池があった。その中にも、私は諦めきれずに身体を沈めた。中央に行くにつれて深くなる池底に、彼がいるのではと探した。冷たい水の中で、彼が溺れているのではないかと思い肌を刺す冷たさに胸が渦巻いたのを覚えている。

「目を覚ました時、生きてるって思ったよ。それで、水面から上がってみれば、驚いたことに胸は抉られたままで心臓はないときた」

見るか? と尋ねるナマエに、脳内がかき回されるようだった。
断れば、そりゃあそうだな。と返される。声が歪んで聞こえた。

「もう身体はぶよぶよだ。皮膚がふやけて、見るからに人間じゃなくてな。包帯もそれを隠す為なんだ」

体中に巻かれた包帯の下は、水死体のようなのだと言う。
ふやけてぶよぶよで、気持ちが悪いのだと。
吐きそうになった。

「その時はまだ吸血鬼が去って直ぐの時だったらしくてな、咄嗟に逃げ出した」
「な、ぜ」
「ん?」
「なぜ、逃げ出したのだ」

その時に、自分はここだと示せば。そうすれば、きっと私は。

「そんなことしたら、他の牙狩りの連中に殺されちまうだろ?」

そうだろう。牙狩りは、仲間と言えど敵となった相手に容赦はしない。
だからこそ、私が彼を見つければ。彼が一言助けてくれとさえ言えば。
ナマエは言う。堂々と。

「そしたら、クラウスが俺を殺せないだろ」

ああ。そうだろう。そうだろう。彼はそういう人だ。
彼は約束を守る。それは自分も相手も。一度交わしたことを、反故にすることはない。そうして私もそうであろうとしてきた。それでも、彼が仲間に殺されそうになっていたら、助けていただろう。だが、彼は望まない。そんなことは一欠片も望んでいない。
彼は一歩、私の方へと踏み出した。彼の一歩は以前と何も変わらない。変わっているはずがない。何故なら彼の成長はあの日で止まってしまっているから、変化できるはずがないのだ。
それなのに、その一歩が、私にとってはとても巨大に思える。踏み潰されてしまいそうなほど、逃げ出せないほどに大きい。

「約束は、思い出したか?」

ブルーの瞳が私を射抜く。その瞳で見ないでくれ。私を映さないでくれ。

「分かるよな。クラウス」

そう目を細める彼は、生きていないというのに美しかった。
ああ、何も変わらない。変化という言葉は彼の前では失われている。永久に不滅なのだ。私の記憶の中の彼と同じように。
だというのに彼は理解を促す。いつかと同じだ。フラッシュバックする。今の私に怪我はない。十分に動ける。だというのにこのデジャヴはなんだ。どうしてここまで変わりがないのだ。やはり彼の前では変化は失われる。

「ナマエ……」

出された言葉のなんと弱々しきことか。
何も変わらない。どうして、何故だ。分からない。過去とは違う。だというのに彼という存在があるだけで全ては過去へ還る。
何故だ何故だと思考を巡らせていれば、ふと気づく。ああ、そうか。もう、あの日に、あの時に、彼という人間は私の手から零れ落ちていたのだ。帰ってきたのではなかった。零れ落ちたものは元には戻らないのだ。過去の過ちはそのままに、それが覆ることなどなかったのだ。
ああ、やはり、やはり、あの時に私は。
彼はまるでイエスのようだ。一度死に、しかし生き返った。だが、君は行かねばならぬ。彼に言えば、そうではないと訂正されるだろう。生き返ってなどいない、と。

「私も――」

言ってはならぬと警報が鳴る。己でも、そうだと肯定していた。言ってはならぬ。
それでも、言わずにはいられなかった。
彼は私にとってのイエスだった。

「私も、共にいこう」

声が掠れ、息がし辛い。あの日、彼の微笑みに、押し込められた願いだった。
そして、始まりの時に彼へ告げた言葉。幼くも、大きな約束。――この手で守れぬなら、せめて最後まで共に。
彼はきょとんとした顔をして、それからどんどんと目を見開いて、少し悩んだように目を閉じて、困ったように笑みを浮かべた。

「冗談にもほどがあるぞ」

面白くないと感想を述べる。面白さなど微塵もない。冗談を言ったつもりもない。
冗談ならば、涙など出るはずもない。雫は頬を伝う。分からない。今己がどんな気持ちであるのかが。分からない。困ったように笑みを浮かべる彼の気持ちが。
視界がぼやけていく、眼鏡をしてもしなくとも意味がない。彼にもらった眼鏡は、牙狩りの活動の中で粉々に壊れてしまった。落ち込む私を見て、彼は仕方がないよなと言った。彼はそうやって物事を全て受け入れる。

「分かるだろう」

彼が微笑む。あの時とは違う笑みだ。諦念はない。それなのに、台詞は同一だ。少しずつ距離を詰めた彼との距離は、あと一歩だけとなってしまった。
理解を促す彼は、記憶の彼と何も変わらない。深海のような瞳は、ただ私を追い詰める。

「死ななくちゃならない。分かるだろ」

―ぬ。―ぬのか。彼は―ぬのか。二度も―ぬのか。
彼は笑って――という。それが間違いではないかと疑う事は微塵も無く。
彼は生きてはいない。そう、彼は化け物だ。吸血鬼に作り出される屍喰い(グール)となった。心臓は抉られ、包帯の下は見るも無残なものとなっているだろう。意識があるのはただただ奇跡だ。それは彼にとっては苦痛であったろう。化け物を憎悪している彼は人類を護る為でもあるが、しかし復讐の為に動いてきた。だからこそ私にあの事柄を頼んだ。そしてそれは現実のものとなった。だからこそ彼は約束を果たそうと私に会いに来た。彼が名を知っていた吸血鬼は既に封印した。彼がここにいる理由はその約束だけとなった。彼は私に求めている。望んでいる。与えられるのを待っている。彼は、彼は、―を、―を、―を。
彼は変わりなく笑っている。

私は。
私は彼の約束の“意味”が分からない。
彼は、今こうして存在しているではないか。
それなのに、なぜ約束などが適用されなくてはならないのか。
彼は確かにグールとなった。化け物となった。だがしかし、ここにいるではないか。自由意思を持って動いているではないか。敵ではないではないか。変わらず存在しているではないか。
消える意味がない。殺す意味がない。
だが彼が―を望んでいるのなら、私はそれに応えなくてはならない。使命でも道理でもない。そういう約束だった。彼が望んでいることに、私は応えるべきなのだ。
だが、彼は望んでいる? 何を? 何を求めている?

ああ。
分からない。
分からない。
分からない――!

「分からない、分からない……!」

理解を拒絶した。
拒絶しなければ、頭が破裂しそうだった。そんなことがあるはずがない。しかし、理解さえしてしまえば、更に、受け入れがたいこととなる。
細い声の呟きはそれでも彼の耳に入っていった。己の愚かさに涙が止まらなかった。私は愚かで、愚劣で卑怯で、救いようもない。果たせぬ約束をした。守れぬ誓いを立ててしまった。

彼は目を瞬かせているようだった。それからあーとか、んーとか唸った後に、滲む世界の中でとてもすまなそうな表情をした。

「そうか。俺がお前を弱くしたのか」

思わず声に出し、否定しそうになった。違う、彼がいたから、君がいたから私は強く成ろうと思えたのだ。

「ごめんな。クラウス」

謝罪など、微塵も望んでいなかった。それでも彼は申し訳なさそうな顔をして、手を伸ばす。私の涙を少し乱暴に拭って、泣くなと肩を叩いた。不器用な慰め方だった。
彼は、私が泣くと戸惑う。それが嫌で、幼い頃に泣くのをやめた。慰めてくれる行為は嬉しかったが、なによりも困惑しているのだと察せられて、気が咎めたのだ。そんなことを思いだすのに、流れ出るものは止まらない。
私の腕を擦り、止まらぬ涙に眉を八の字にする彼は、私を必死で慰める彼は、生きてはいない。温度がない。生気がない。彼は血の通わぬ身体を動かす亡霊に過ぎない。それなのに、どうしようもなく彼は彼のままだ。
ナマエは困惑しきったような顔をしていたが、ふとその顔を緩め、そして言った。

「大丈夫。大丈夫だよクラウス」

この期に及んでも、彼の言葉は私を安らぎに誘う。
何が、大丈夫だと言うのだろうか。彼は約束を果たしにここに訪れ、そして私はその約束へ至る理解を放棄したというのに。
彼は、優しく、甘く言う。幼子に言う様に、泣く幼子を慰めるように。

「もう、お前に殺してくれなんて言わないよ」

その言葉に希望を見る。
彼は私に希望を与える。思わず縋ってしまうような、そんな希望だ。
私の望むものを、与えることを叶えようと。私の為と動いてくれる。分かっていると、安心していい、理解していると、“大丈夫”だと笑う。
だが、彼は、

「大丈夫。勝手にどこかで死んでるさ」

その希望の意味が決定的に私とは異なる。

彼の手が、私の腕から離れる。温もりの無い左腕は、彼の元へ戻り、彼の瞳は微笑んでいる。
ブルーの瞳が私を睨む。睨んでいる。私が私を睨んでいる。私を責めている。いいのか、と。
脈動で耳にノイズが走る。血管がはち切れそうで、目の前の光景が本物かどうか己に問うた。嘘であればいいと願ったが、それは紛れもなく、拒否を受け入れてはくれないほどの現実だった。
彼が行ってしまう。彼の瞳が逸れる、深淵を臨む眼は私を映さなくなる。
彼が行ってしまうぞ。彼は私に背を向ける。それは訣別の意だ。あの日と同じだ。彼は止まらず、止まってくれない。私が引き留めても、彼は往くのだろう。己の矜持の為に。
約束を反故にしただろう私を、彼は責めない。それよりも、泣いた私に謝罪し、慰めた。彼は優しく、何も変わりなかった。彼は約束を果たそうとしただけだった。
分からない。彼が望むことが、求めることが分からない。約束を持って、彼は何を望んでいた? ―だ。分からない。分かっているのではないか? いいや、分からない。分かるはずがない。分かっていいはずがない。彼は口に出してまで言っていたではないか。―ななければならないと。単純明快だ。彼はこんな身体になってまで、生きてなどいたくないだろう。ならば彼が望むことは―だ。分からない。分からない。嫌だ嘘だ何故だどうして、どうして。

分からない。理解を必死で拒否する。
そして彼は、分かってくれない。理解はそもそも存在しない。
謝ってほしいわけではない。慰めてほしいわけではない。約束を反故にしたことを詰らないでほしいわけではない。彼は、肝心なところで人の望みを振り払う。

行かないでくれと伸ばした手は。



「――クラウスなら、そうしてくれると思ってたよ」

首を動かし振り向いた、彼の瞳に映る男は、拳を振り上げていた。











貴方は笑って死ぬという。しかし私は貴方にどんな形でも生き続けてほしかった、傍にいて欲しかった。どうして分かってくれないのか。なぜ、なぜ分かってくれない。私はただ、ただただナマエに傍に居て欲しかっただけなのに、それだけで良かったというのに。それだけで、それだけで。


鳥は、枷までも力に変えて、空へ羽ばたく。枷の気持ちなど、顧みずに。