- ナノ -


終始

君も消え去って


苦しげなナマエの声を聞き、驚愕と焦燥で冷や汗が出る。
どうしてだろうか。先ほどまで体調に異常はなさそうだったというのに。やはりブレッツエルを一気に食べ過ぎたのが原因なのか? 彼はギルベルトの菓子の中でもブレッツエルを一等好んでいたが、次からはあまり作らせ過ぎない方がいいかもしれない。

「ナマエ、大丈夫か。今水を」
「い、いらねぇ、うぇ、また吐いちまう」

顔色を悪くしてそう述べるナマエに、そうかとキッチンへと進もうとしていた足を止める。しかし、だからと言って焦燥がなくなるわけではない。未だに紙袋へと顔を沈めている彼に近寄り、その背を擦った。

「お、おお。悪いな」
「いや。これぐらいはさせてくれ」

顔色の悪い彼は、そう弱々しく謝る。甘い匂いが漂った。ブレッツエルの匂いだろうか。
撫ぜる背に、彼がやはり昔と変わりないことがよく分かった。服装も、もしかしたら変わりないのかもしれない。
しかし包帯は巻かれ、右腕も無く片目も不自由だ。こんな状況でよく吸血鬼相手に戦えていたものだと思う。そう考えれば、あの場で私と衝突しなければ、どうなっていたのか。考えてだけで背筋が凍る。
ふと、疑問が頭を擡げた。どうして彼は私を探していたのだろう。友だからだろうか。他の牙狩りでは駄目だったのだろうか。世界のあちこちを動き回っていた私でなくとも、他の一定の場所に駐在している牙狩りに連絡を取ればすぐにでも身柄を保護され、治療を受けることが出来ただろう。

未だに気持ち悪げにするナマエだが、急にそのことを尋ねたくなった。しかし、彼はまだ気分が優れない。今聞くべきことではない。彼を休ませて、戦闘で疲労しているだろうから、そのまま明日に持ち越してもいい。過去と背丈の変わらない彼だ、持ち上げて仮眠室へ連れてもいけるだろう。彼は抱えたらきっと驚いた顔をしてそれから納得しかねるような顔をする。それに私が謝れば、きっと気にしていないと笑うのだ。そうやって私の反応を見るのが楽しいのか、昔は頻繁にやられていた。
そうしよう。そうして昔と変わらぬように話をしよう。
そうだ。聞くべきことではない。

「何故、私を探していたのだ」

そうだというのに、口は不自然に動く。そうしなければならないのだと、突き動かす様に。
ナマエが袋から顔を上げる。聞きたくない。見たくない。彼の目を映せない。耳を塞ぎたいというのに、目は彼を映し、耳は彼の言葉を聞くために澄まされる。

「あの吸血鬼の名を伝える為だよ」

ああ。そうか。それならいい。
息が漏れるところだった。彼は会ってからの開口一番、吸血鬼の名を聞けと言ってきた。その為に私は彼の姿を見たことによる衝撃を口に出すことが出来なかった。
ブレングリード流血闘術による、血の密封。それは限られた者にしか使用することができない、殺せぬ吸血鬼を殺すための術式だ。それは吸血鬼に対する最後の手でありながら、発動は至難の技となる。過去古い文献を探し、地元の人々へ情報収集を行っても、その地に潜んでいる吸血鬼の名は判明しないことが多い。名で縛られることを嫌う血界の一族たちは、自らの名を周囲に広めることはしない。結果的に密封できることは極々少ないのだ。
疑問は直ぐに沸き起こる。

「何故、吸血鬼の名を知ることが出来たのだ?」

あの村を襲った吸血鬼の事も、牙狩りは調査した。しかし名はおろかどこからやってきたのかさえも判明せずに、調査は無駄に終わっていたはずだった。それを、どうして彼が知っているのか。
彼は答える。

「冥途の土産で教えてくれたよ」

軽い口調だった。きっと冗談だろう。

「ナマエ」

だが、冗談でも笑えはしない。君を失って、私はどれほど後悔したか、君は分かっていないのだ。
彼は深淵を覘く瞳でこちらを見る。口角は上がっていた。しかし目は、ひたすらに深い。

「それから」

続きを示す言葉に、身体が強張る。
それは安堵した私に対する叱咤だったのかもしれない。本題はこちらだと私を惹きつける。彼は私を惹きつける。それは行動で、言葉で、瞳で。彼が惹きつけ私に指し示したのは、とても優しいものだった。私の知らない世界を彼は楽しげに教えてくれた。私も楽しかった。
私は変わらず彼に惹きつけられる。しかしそれはもう優しいものではない。いや、違う。優しいものなのだ。彼は純粋な厚意でそれを言おうとしている。まったくの無意識でそれを指し示そうとしている。それを見るのが当然なのだと、見た方がいい、知ったほうがいい、そう促している。

「お前との、約束を果たしに」

約束。約束とは。なんであったか。
白を切ろうとし、私はそんなものは知らないと彼の目から視線を転じようとする。しかし駄目だった。離させてはくれない。逸らせてはくれない。
彼は笑みを浮かべる。普通の笑みだ。なんでもないように笑う。何故笑うのだ。分からない。
気付けば、手を遠ざけていた。ソファに降ろしていた腰が浮かぶ。分からない。どうして私は彼から離れようとしているのか。
彼は笑い、そして口を開く。その口からはブレッツエルの欠片が零れ落ちていた。しかし、何故かその欠片は咀嚼されたというのに湿らずに乾燥しきっている。分からない。甘い匂いがする。

「何の、事だろうか」

彼と約束したことは、全て覚えている。君と共に戦うと決め、そうして口に出した。彼は少し悩んだがそれでも笑って承諾してくれた。幼いころの、大きな約束だ。彼との約束は、必ず守ってきた。そもそも破る事はしようとは思わないが、彼に無礼だと殊更慎重になった。小さなことも、大きなことも。だから、忘れるようなことはしない。彼との約束を、大事な約束を。

「なんだよ。忘れてるのか?」

ははは、と朗らかに声を上げる彼は、何も変わらない。
忘れるはずがない。彼との記憶は私の宝でもある。それを、忘れ去ることなどありえるだろうか。だから、私が“忘れている”のではなく、この状況下で果たせる約束が“ない”のだ。
そうだ。あるはずがない。彼はここにいて、話せて、生きていて、ブレッツエルを食べていた。

「なぁクラウス。“分かった”って、言ってくれたじゃねぇか」

ああ、言った。言ったとも。
約束はあれど、あの記憶の約束は、彼と共に戦うと決めた時のように重く強い記憶だ。まるで鉛のようで、そして枷のようだった。私は彼の枷になると誓ったのだ。そう、誓約をした。守ろうと、守り抜こうと。いつでも羽ばたこうと息巻く彼を、止める為の足枷となろうと。
身体がよろける。彼が、随分と遠い場所にいた。一メートルほどになった距離は、自らが後退して開いた距離だった。
あの約束は、今現在効力のある物ではない。私はこれからも彼を守るだろうし、枷になるだろう。しかしその中身は、今ここでは重要でない。そうだ、そうだろう? 分からない。
そういえば彼は食べたブレッツエルを全て吐きだしていたようだ。

「クラウス」

ナマエの声が私を呼ぶ。何も分からない。声までも、変わらない。
何も変わらないのだ。それはとても好ましいことだ。記憶の彼と変化しない。数年の後に出会った友は、何も変わらず私を呼ぶ。
私は背が伸びた。声も低くなった。肩幅も大きくなり、拳も一回り成長した。
技も術も磨き、今度こそ、彼を守り切れる程になったと自負できる。力不足である自分はもういない。未だに未熟である部分はあるだろうが、もうあのような失態は犯さない。大事なものを取りこぼすような真似は絶対に。

彼が立ちあがり、私へ近寄る。甘い匂いがする。ずっとしていた。甘い匂いだ。過ぎるほどに甘い。香水ではない、菓子でもない。
彼から漂う。彼から、彼からにおってくる。

「なぁ」

彼が口を開く。乾燥した唇が弧を描いている。舌はブレッツエルに水分を吸われたのか、カサカサとしている。真っ青な顔色は、未だに彼が体調が良くないことを示している。休んだ方がいい。こんな話は後にしよう。君の体調が心配だ。きっと一夜寝てしまえば、その顔色も、唇も、乾燥しきった舌も、きっと元に戻っているだろう。
そうだろう。そうに決まっている。そうだろう?

ブルーの瞳が私を映す。違うと、そう全力で告げる。そのブルーの瞳に映っているのは、真実ではない。彼の想いでもない。顔を歪ませ、彼から距離を取り、事実から逃げ出そうとする男が映っている。
違う。違う、事実は今目の前にある一つだけだ。彼は生きている。彼は、彼は! 今ここに、こうして存在しているではないか!!

「なぁクラウス」
「ナマエ……」
「俺が、化け物になったときは――」

彼が、復唱する。
光景がよみがえる。あの時も彼は包帯を全身に巻いていた。今と違って血が滲んでいた。彼は遠くを見ていた。彼は吸血鬼を憎んでいた。牙狩りの活動を復讐と呼んでいた。彼は化け物をとても憎んでいた。彼はそんなものになるのは御免だと言っていた。それはそうだろうと私は思った。彼はそんなものになるぐらいなら、生きてなどいないだろうと思った。それは正解だった。彼は私に頼み事をした。彼は、彼は、彼は、彼は。

私は、その頼みに応えた。

「――殺してくれるんだよな」

彼は笑った。向日葵のような笑みだった。