- ナノ -


第七の鉢

大地震 島も山も消える


「スティーブンだっけ。アイツ。良い目してるよなぁ。しかも身長高いし、ああいうのがモテるんだろうなぁ、落ち込むわ。サインでも貰っておくべきだったか。でも近づくなとか言われそうだな。しかしいい奴そうだよな。腹黒そうだけど、清濁併せ持つっていうのかね。前しか向いてないお前にピッタリだよ」
「そうかもしれない。君は私に指示を出し共に駆けるタイプだったが、スティーブンは私の力を奮う場所を指定して補助してくれる。どちらも違うが、どちらも私は好ましい。そして私が関与できない部分も彼は携わっていて、ライブラはそれで保っているようなものだ。しかし、身長は残念だが君も十分女性の興味を惹くだろう。君は魅力的であるし、落ち込むことはない。それに、彼が君に対し悪い印象を持っているのは確かだろうが、サインなら私から彼に頼んでみよう」
「はは、そりゃあいい」
「む。冗談ではないのだが」
「そうか。嬉しいよ」

ソファに座ったナマエは目を輝かせてブレッツエル眺める。涎でも出そうな面持ちに、食べればいいといえば、袋はあるかと聞かれる。

「袋? 確か奥に紙袋ならあったはずだが」
「それでいいや。寧ろ中が見えないならそっちの方がいい」

疑問に思いながら奥へ足を運び、紙袋を一つ持ってくる。前に紅茶を購入した時に品が入れられていた紙袋で、紅茶の良い香りが漂ってくる。

「これでいいだろうか」
「ああ。ありがとさん」

紙袋を受け取った彼が、満を持したようにブレッツエルへ手を伸ばす。十分に眺めた後に、幸せそうな顔をして口に含むのだから、微笑ましい。私も、そんな彼の顔が見れて幸せだった。
表情を見れば彼が今どう思っているかなど聞かずとも分かるが、敢えて問う。

「ギルベルトのブレッツエルは美味しいだろうか」
「勿論だ!」

半ば叫ぶように断言したナマエは満面の笑みで、思わず釣られる笑みだ。変わらぬ向日葵のような表情は、私の胸を痛いほど満たす。彼のこの表情を見続けてきた。幻想の中で、瞼を閉じれば彼はいた。諦念の儚い笑みを浮かべながら、しかし向日葵のような笑みをして。
思わず思考の海に足を滑らせそうになるが、しかし今はその時ではない。彼はここにいるのだから。
私が、目を閉じれば彼を見つめていた時、彼はどうしていたのだろうか。

「ナマエは、この数年間何をしていたのだ? その傷だと相当苦労していたようだが」
「あー、まぁ。大変だったぞ。吸血鬼に追われるわ包帯は直ぐに駄目になるわ。もう散々だ」
「吸血鬼に追われていたのかね!」
「おお。まぁほうほうの体で逃げてきて、紐育でお前を探してたら異界との結合だ。驚いたぜ」
「ナマエもあの場に?」
「ああ。ほんと、お前を探す為って言ったって紐育は流石に博打だったな」

二個目のブレッツエルを口に運びながら答えるナマエに、こちらは驚くばかりだった。ヘルサレムズ・ロットが出来る前からいたのなら、半年前から彼はこの街に居たことになる。半年間、私は彼がここで生きているというのに見つけることが出来なかったのか。
今になっては仕方がないと言っても、早々に彼を見つけられていればと思う。そうすれば、もっと早く彼の無事を確認でき、こうして会話も出来ただろうに。
無意識の内に俯いていたことに気づいて、顔を上げる。彼の前で、落胆する資格はない。彼は私を探していたというし、見つけられなかったことは変えられない。しかし、と思う。

彼のいない数年は、まるで色が失われたようだったと、今なら思う。そんなはずはないのだ。世界に色は満ちているし、鮮やかだ。だが、それなのに今の世界と比べてしまうならば、天と地の差だ。彼が笑えば花は美しく、霧煙る空は青空のようになる。
だからこそ、尚更に考える。あの時に、彼を行かせなければ、と。

「ナマエ……」

彼の目がこちらを向く。左目が包帯に巻かれ、奥に隠れたブルーの瞳も見えない。右腕を失い体中に包帯が巻かれた彼は、血体術ももう使えなくなっていると言っていた。
その全てが、あの日に収束する。あの日、あの時、あの笑みに。

「すまなかった」

ブルーの瞳を見れなかった。あの奥底まで見通す目を正面から見れる気がしなかった。
彼は、私の後悔だ。悔いの塊だった。私は、彼のようになる人を作らないように必死だった。何かの為に、私の為に死ぬ人間がいないように。しかし、彼のように気高く人類を護れるように。
彼は声を出して笑った。つい目を向けてしまえば、彼は手に三つ目のブレッツエルを持っていた。笑窪の出来た彼の顔は、冗談でも聞いたような表情だった。

「なんだよ、急に」
「……ナマエ。笑い事では」
「笑わずにどうするって言うんだ。覚えもないことで謝られて」

大口でブレッツエルを口に含んだナマエは、少し悪そうに笑った。
気にしていないとでも言う様に。そんな姿になって、腕を失って、それでも、彼は何とでもないという態度をする。
そして、実際にそうなのだろう。なんでもない。彼にとっては気にするべくもない事柄なのだ。死に掛けて、しかし笑う。まるでなんてことでもないように。
私はそれを見て、羨ましいとも、恐ろしいとも思っていた。死に掛けてさえ、護れたことを、打倒できたことを誇る彼は勇ましく逞しい。そんな彼こそが人類の希望なのだろう。
しかし、私は過去に置いてそれが常々恐ろしかった。彼が本当に死んでしまうのではないかと、隣に居て、共に戦い、共に進んでいるのに、ふとした時、目を離した瞬間に、彼がいなくなってしまうのではないかと。だから、そうやって死ぬことをなんでもないようにする彼が羨ましかった。
恐ろしくて、恐ろしくて――彼のあの微笑みを見て、しかし本当の恐怖を知った。

「うん、ほん、と。うまいな、ギルベルト、さんのブレッツエル」

最後のプレッツエルを手にしたナマエは、食べるというよりも突っ込むように一気にそれを口に運んだ。口を抑え込むようにして、懸命に口を動かす。

「どうしたのだ。誰も取りはしないというのに」

答えることもままならないのか、口に当てていた手をこちらに伸ばし“待て”とジェスチャーをするナマエの顔色は頗る悪い。真っ青な顔は、こちらを心配させるに余りある。
近寄ると、ナマエが口を開いた。

「ま、て。ちょ、今、無理」
「ナマエ? 一体何が……」

顔を歪ませるナマエは、そのまま勢いよく顔を背けると、紙袋を取って自分の顔の下に置いた。
何事かと思っていれば、甘い匂いが漂った。

「うぇええええ」
「なっ、ナマエ!?」

確かめずとも分かる。彼は吐いていた。