- ナノ -


第五の鉢

獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛


「クラウス」

ナマエより低いスティーブンの声色が私を呼んだ。振り向けば眉間にしわを寄せたスティーブンが険しい目つきでナマエを睨んでいた。

「おっ、相棒サンじゃねぇか。スティーブンだったか?」
「俺の名を呼ぶな。そして、クラウスの名前も」
「スティーブン」

何故そのような態度をとるのだろうか。確かにナマエという人物を知らないスティーブンにとって彼は警戒すべき対象かもしれない。だが、血界の一族―吸血鬼相手に共に戦ったではないか。それだけでナマエが敵ではないと理解できるのではないかと疑問に思う。スティーブンにナマエを敵だと認識していてほしくはない。
敵意を向けるスティーブンを制止する意味を込めて名を呼べば、更に彼の表情が険しくなった。

「クラウスから離れろ」
「ッ、スティ――」
「OK。OKOK、了解した」

さらりと承諾したナマエに驚き、向けられる視線にたじろいだ。その目は自分から手を離せと訴えている。

「……しかし」
「なんだよ。勝手にどっか行ったりしねぇって」

仕方がない。とでも言う様に笑ったナマエに過去を思い出す。彼は私が足を止めたり悩んだりすると、そうやって笑って背を叩いたりアドバイスを送ってくれたりした。
彼は嘘を言わない。言ったとしても冗談ぐらいで、悪意のある虚実を口にしたことはなかった。時折意味深な言葉を発してその意味を教えはしないということはあったが。
躊躇して、しかし手を離した。ここで意地を張り離れない方が事態を悪化させるだろう。ナマエは満足げに頷いて、それからスティーブンの方を見た。

「折角だ。クラウスとゆっくり話をさせてくれよ」

スティーブンとは真逆の、警戒も緊張もしていない風なナマエが、スティーブンにそう伝える。警戒も緊張もしており、攻撃さえ厭わないという様に足を踏み出しているスティーブンに、否が応でも私は焦ってしまう。勘違いとて、友人を氷漬けにされては堪らない。それもずっと、想っていた相手なのだ。
後悔も、哀悼も、どうにもならない相手だ。事実だけが落ち込んで、心臓の奥深くへ沈殿していた。大切なものであると自覚していたのに、取りこぼした瞬間は千言万語を費やしても表現し得ない。私の言葉は彼によって培われ、彼によって失われたのだ。彼と過ごした記憶は輝かしい、しかし言葉に出すには胸が痛み過ぎる。彼を知る者は少ない。私は彼という人間を口には出せず、彼と過ごした記憶は語れない。ギルベルトやエイブラムス氏のようなごく一部にしかナマエの姿は知られていない。
その生きざまを、物語を、多くの人に知ってもらいたかった。しかしできない。私には、その最期を導いてしまった私には。
だからこそ、スティーブンには彼と敵対してほしくなかった。彼を知ってほしかった。

「大丈夫だよ。何もおこりゃあしない。そうだろ? クラウス」

彼が言うのならそうなのだろうし、そもそもスティーブンが警戒するようなことは何も起こらない。彼が断言した時、それは真実となる。ナマエは約束(言ったこと)を反故にすることはない。そうであろうとしていた。
頷けば、ほらな。と言ってスティーブンの顔を仰いだ。ナマエはあまり身長が大きくなかった。隣にいる私と比べても頭二つ分ほど差がある。スティーブンと比べても差は歴然としていて、それも以前と変わりないところだった。
背が高い方がかっこいいと言って、盛んに私に対して“絶対にあと十五センチは伸びる”と宣言していたものだ。残念ながらそれは、本当にはならなかったらしい。

スティーブンは険しい顔のまま、ズボンのポケットから手を抜いた。
それは彼の戦闘解除を指し、私は肩の力を抜いた。ナマエも気が抜けたようにしている。

「んじゃ、案内してくれよ」
「どこにだろうか?」

当然のように案内を頼む彼に首を傾げる。案内と言っても、場所を指定されなければ分からない。このヘルサレムズ・ロットの事だろうか。それなら彼と行きたい場所がある。フラワーショップや紅茶葉を売っている紅茶専門店。彼が行きたがるのは大衆レストランだろうか。ナマエはよく店に詳しくない私を案内して、勝手が分からず苦戦する私を見てあれこれと教えてくれた。それを私が逆に出来るのならばそれは楽しい事だろう。
ナマエは思い出したような顔をして、それからほら、と言った。

「ここでも色々やってるんだろ。その拠点のことだよ」
「色々……ライブラのことだろうか」
「おお! うんうん!」

途端に嬉しそうに目を煌めかせたナマエに少し微笑む。
はしゃぐ彼は子供のようだ。

「なら、こちらだ」
「おいクラウス。本当にそいつを連れていくのか?」
「いいからいいから」

歩き始めた私にスティーブンが忠告を飛ばすが、ナマエがそれを受け流した。
機嫌を害したのか苦虫を潰したような顔にスティーブンがなるが、それを見てナマエは笑った。

「大丈夫だよ。後ちょっとだから」

ライブラまでの道のりは少し遠い。あとちょっとという距離ではないが、ナマエが楽しそうに鼻歌を歌うので、思わず続きそうになった。