- ナノ -


第二の鉢

海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ


風圧と焦燥によって引き攣った彼の顔は、包帯が巻かれていた。
一瞬だけ映ったその表情は、しかし生き生きとしていた。驚愕と焦りと叫びと涙さえ流しそうな恐ろしさに耐えている目元は見開いていて、彼のブルーの瞳が様々と見て取れた。
数秒にも満たないその邂逅の中で彼は、助けてくれクラウス。と言う以外なかった。吹っ飛ばされている状況下の中で、寧ろそれを叫べたのは彼であるからだろうか。だが、彼は確かにそう言った。それだけでよかった。

身体を急展開させ、拳を振り下ろす為に構えていた左腕を胸から離し、両手を大きく広げる。突っ込んでくる彼の身体はまるで弾丸のようで、そうしてそれはその言葉通りの速度で衝突した。

「――――ッッ!!!」
「ぐえぇっっ!!」

足の踏み込みを甘くし、出来るだけ衝撃を和らげるために勢いに引き摺られる。衝突してきた彼事後ろへ後退し、そのまま宙へ放り出された。
内臓に直接入ったダメージに、息が詰まる。ビルの橋から道路へと強制的に返却された身体はそのまま地面へと落ちていく。

「誰か受け止めろおおおおお!!!」

“流石に死ぬううううう!!!”と叫ぶ彼の声は、煩いほどに鼓膜へ響く。
身体が機能を停止させたように力を失ったのが分かった。代わりに打ち震えるほどの衝動が身体を駆け抜けていた。それは全ての機能を停止させた上で、脳内が焼き切れる程の歓喜を打ち付ける。
彼が浮かぶ、笑う彼が、微笑む彼が、共に歩んできた彼が。
彼が、彼が、彼が、彼が、ナマエが――生きている――!

認知を遂げた脳内が次に感じたのは背への衝撃だ。
それに現時点での状況を思い出し、咄嗟に腕の中にいる彼を抱きしめた。しかし衝撃は背骨を砕こうとするほど強烈ではない、しかし衝撃は何段階も続き、その中で私に耐えられなくなった障壁は砕けていく。

「――ぐッ!」
「うおぁっ!?」

最後の衝撃は覚悟していたよりも柔く、そして冷たかった。
周囲を見れば、まるで氷をくり抜いたようなU字型となっており、その氷の穴に放り込まれたのだと一目で理解できた。そして入り口から底へかけての砕け散った氷の板を見て、その板を割りながら下へ落下し、衝撃を和らげた、私を衝撃から守る為にスティーブンが作り上げたのだと分かった。

肌を冷やす氷の穴の中、私が初めに意思を持って目を向けたのは腕の中だった。

「ナマエ――!」
「クラウス!! よく聞け、今からアイツの名を言うから、しっかり聞けよッッ!?」

衝撃から守ろうと、腕の中に抱きしめていたはずの彼が、目の前で私の右肩を抑えながら馬乗りをしている。その状況に、口の中の言葉が消える。驚愕と彼が喋った喜びと聞けと命じられた反射と、何もかもが混ざり合って私の喉から音を取り上げた。
彼は何も変わっていなかった。黒を貴重とした服を着て、ライダースーツを身にまとっている。ボロボロなそれは見るも無残だが、もっと無残なのは彼自身だ。見える肌の部分には全てと言えるほど包帯がぐるぐると巻かれ、顔までも左眼まで覆うほど包帯が巻かれている。短い黒髪が荒れていて、肌も焦燥からか真っ青だった。それでも、美しいまでのブルーの瞳は変わらない。甘い匂いが香った。

「グルゾ・ルガド・ヴォッゾ・ムルギュルァ・ロロ・ヴァンドウズ!!」
「な、それは!?」
「そうだ、あのビルを崩壊させたのは――!」

「クラウス!!!」

氷の外からの叫び声に、咄嗟にナマエを抱き込み拳を振り上げる。
一瞬だけ映った影と戦闘で培った直感で術式を発動した。

「117式 絶対不破血十字盾(クロイツシルトウンツェアブレヒリヒ)」

現れた絶対防御の十字架は氷の空間を崩壊させ全面を防御する。そしてそれとほぼ同時に、巨大な漆黒の狂犬が十字架へ喰らいついた。
余りある殺意を内包し牙を尽きたてる狂犬のその後ろ――腕からそれを生えさせ、こちらを殺すための一撃を放った男は優美に笑みを浮かべた。

「なんだ、残念」

宙に浮かぶその姿は、まさしく化け物――血界の眷属――吸血鬼。
そして――彼を失った日に見た絶望だった。