- ナノ -


第一の鉢

獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる


ヘルサレムズ・ロットの街中に轟音が響く。
咄嗟に音の方面を振り向けば、異界との融合での崩壊を免れていた超高層ビルが中央近くから折れて行っている光景であった。
騒動が頻繁に発生するこの街だったが、そのまるで現実味のない出来事は人類の危機を察するに余りあるものだった。悲鳴が聞こえ、ビルが地面へ向かって急降下を始める。

「スティーブン!」
「あぁ、予定変更だ!」

ライブラ本部へと向けていた足を全力でビルの急降下を止めるために疾走する。
ビルとの距離は大きかったが超高層のビルである為に、折れた先端部分が落下する地点までなら十分に駆ければ間に合う。落下地点には歩行者天国、多数の逃げ惑う人々、そうしてビルが全て落下した結果倒壊する建築物は百を超えている。

「クラウス!」

ビル先端の落下地点、同時に道路の中心点を見定め、スティーブンの声を聞く。
確かな合図だ。人々がいない場所、被害を最小限に食い止められる場所を目を走らせ特定し、拳を振り上げた。収納式のナックルをその衝撃により指へ嵌めこむ。

「ブレングリード流血闘術39式――血楔防壁陣(ケイルバリケイド)」

漆喰の巨大な十字架が地面から生え、一斉に空へと伸びる。
頑強なそれは降りかかってきたビルを串刺しにしながら速度を急激に落とさせる。だが、足りない。そのままでは十字架を突き抜け地面へ衝突し、根本から崩れ去るだろう。

「エスメラルダ式血凍道――アヴィオンデルセロアブソルート(絶対零度の地平)」

その現実を氷結する地平が否定する。
クラウスが出現させた血の十字架を這いビルまで侵食し、へし折れたビルの中心部分で一本の巨大な氷柱を形成する。ビルの先端を一点、氷柱で一点、折れた根本との三点で支えられたビルはその崩壊を一時的にではあるが停止させた。
多数の犠牲を回避できた状況に安堵の息を吐きたくもなるが、今はその状況にはない。

「なんだと思う?」
「分からない。だが、確かめねばならない」

超高層ビルを叩き折る。それを誰が、何が行ったのか。
ただの騒乱の一部か、それにしては冗談が過ぎる。この街に置いて冗談は本気だが、それでもこれほどの規模を成し遂げるレベルであるのは限られる。
足に力を入れ、跳ね上がる。己が刺した十字架を駆け登りながら、その正体を見極めるべく衝撃の地点へと赴く。

「クラウス!」
「スティーブンは後から頼む!」
「勝手に突っ込むんじゃないぞ!」

携帯を取り出し他メンバーへと連絡をしているであろうスティーブンに言葉を残し、ビルの頭部分に登り切る。そうして霧けぶるヘルサレムズ・ロットの空と、根元まで続く高層ビルの橋が目の前に現れる。
一直線に続く騒動の地点への架け橋に、足を止めるまでもなく駆け出そうとした。しかし、眼前に捕えた光景に一瞬だけ目を歪める。
根元の地点――遠い彼方に何かが見えた。黒いそれは丸い塊で、それがどんどんと大きくなっていく。
塵のようだったそれが一センチ代に、十センチに――そしてそれは手の平に収まり切らないほどに巨大となり、目前へ迫ってきた。
咄嗟に避けようと身体を捻り上げる。なにものかからの攻撃、大きさからして普通のミサイル弾ではない。直撃を避け、背後に被害が出ないよう術式と衝突させる――!

――ぁ―、――、――

下した判断を実行するために捻った腰が、何かに反応し止まった。
焦りに冷や汗が出る。動かなければ直撃し、攻撃をまともに受けてしまう。それは避けなければならなかった。しかし、身体は止まったまま。気付けは腰以外の何もかもが動かなくなっていた。
肉体の自由を奪う攻撃を気づかぬうちに施されたか――。自らの迂闊さを呪った瞬間、動きに合わせた風を切る音で掻き消されていた周囲の音が一斉に鼓膜へ襲ってきた。

――ァ―――――――ス―

叫び声がする。切羽詰った声だ。助けを求めている人間特有の悲鳴。
それにその方向へ思わず首を回す。動かないと思っていた関節は容易に動いた。
黒い鉄球のようなそれが、目前へ迫る。しかしそれはまるで人形のように手足を投げ出し頭を生やしていた。そこから上がる人間のような悲鳴は、私の視線を釘づけて離さない。
衝突する――その瞬間に、叫び声がやっと何を言っているか理解した。



「助けてくれーーーーーーー!!! クラーーーーーウス!!!」