- ナノ -


02


「火花さん」

カチャリ、扉が開く音がしてベッドの上で肩が跳ねた。
ゆっくりと声のした方に顔を向ければ、わざとらしいほどゆっくりと足音が近づいてくる。

「ちゃんと大人しくしてくれてたんですね。いい子ですね」

同様に近づく声に、気持ち悪いほどヒーローホークスに声が似ているなと眉間に皺が寄る。胸の奥、何かがくすぐられるような感覚に、確かに有名ヒーローの名前は心細い精神を籠絡するのに全く効果がないわけではないのかもしれない。だが、相手はただの犯罪者だ。ヒーローホークスではない。

「お腹が空いてるかと思いまして、コンソメスープ作ってみました。鶏肉も入ってるんですよ」

近づいてきた足音の主は、そのままベッドに腰掛けたようだった。ベッドが僅かにきしむ音がする。
僅かに後ろへ下がる、だがそこから逃げ出すのは今は難しいだろう。扉はあいつの方向にある。逃げている最中に取り押さえられて終わりだ。下手に怒りを買うと何をされるか分からない。声色からして、今は機嫌は悪くないように聞こえるから、策もないうちに警戒されないようにしなければ。
だが――だからといって、犯罪者が用意した食べ物を素直に食べられるほど肝は据わっていない。

「よく煮込みましたから。味見もしましたし、悪くなかったですよ」

カチャカチャと食器を動かす音がする。何が味見もした、なのか。
致死性の毒物――は入っていないとは思う。仮定通りの小児性愛者だとして、獲物の子供を殺すとは思えない。ペドフィリアにネクロフィリアが合わさったらどうしようもないが。だが、だからといって身体に異常をきたす毒物が入っていないということにはならない。
ショタコン疑惑のある犯罪者だ。何をしてくるか分からない。

「ほら、口を開けてください」

そう言われて素直に開けられるわけがないだろう。
少しだけ様子を見ようと、口を開けないでいれば、唇に何かが触れる。暖かくて少し濡れている、固い何かだ。話の文脈からするに、スプーンだろうか。押しつけるわけではないが、催促するように触れているそれに、開くかどうか思案する。
だが、そうしている時間が長かったのか、相手がせっかちなのか今度は唇の隙間に差し込まれるようにスプーンが触れる。もちろん開いていないから上と下でスプーンを挟むような形になるだけだ。しかし、そのまま僅かに傾けられてスプーンに掬われていたスープが唇に一筋流れた。
慌て、思わず口を開けば、小さく開いた口を押し開くようにスプーンがゆっくりと差し込まれる。一種の気持ち悪さを感じながら、口内で傾けられて流れ込んできたスープを飲み込む。……飲んでしまった。

「美味しいですか?」
「……」
「うーん、俺的には自信作なんですけど。火花さんの口には合わなかったですかね? やっぱりもう少し薄口のほうがいいですか?」

まるで親しい仲のような口調で、味について聞いてくる。
味は、別に悪くなかった。店で食べるようなものや、家庭の味とも違う。だが、確かに人の手によって一から作られたような『癖』が感じられる味だった。
確かに、少し味が濃い。若者が好むような味付けな気がした。味覚が鋭いのかただの好みの問題か、私は薄口の方が好きだった。だが、それをわざわざ教えてやるつもりもない。

「じゃあ、次からもうちょっと薄くするんで、今日のところはこれで我慢してください」

しかし相手は私からの返事を貰ったかのように話を進める。今日のところ、明日もあるのかと一気に食欲がなくなるような、重い石が胸に落ちるような感覚がした。
相手は知ってか知らずか、引き抜いたスプーンに再びスープを掬ったのか、再度唇に触れさせてくる。仕方なく口を開ければ、小さく笑い声のようなものが聞こえた。
良いようにされている。それがどうにも、腹立たしくて仕方がなかった。だが、ここで私がいくら怒っても意味はないのだ。
暫く無言で食事が進み、カチャリと音がなってスプーンを寄越されることがなくなった。終わった、らしい。

「いっぱい食べられましたね。偉いですよ」

まるで幼子に言うような口調にピリリとした苛立ちが走る。緊張した精神が、恐れではなく怒りに変換されていっているのか、不味いとゆっくりと息をして自分を落ち着かせる。そもそも、私は今五歳児だ。そんなことに苛立っていたら、この生活でいつ馬鹿な行動をしてしまうか分からない。
応えずに聞こえないように小さく深呼吸をしていれば、顎に何かが触れた。
驚いて顔を上げるが、その感触は離れない。顎に何か触れている――これは、人の手か。

「そういえば、最初に零しちゃってましたね。綺麗にしないと」

食事を拒否していた時に一筋流れたスープのことか。前のことだ、もう乾いているだろうに、目ざといものだ。
おそらく、私は気が緩んでいたのだろう。乾いていた喉がスープで潤って、腹も満たされた。そして犯罪者は君は悪いものの、今のところ直接的な害は寄越してこない。
だから、余計に肝が冷えきった。

ぬるり、と生暖かい何かが顎を伝った。一筋通ったその場所を、丁寧に拭うように顎下から唇へかけてうごめいていく。
一瞬何か分からなかった。だが、熱い吐息が頬に触れ、それが何か分かってしまった。

「うわぁああああッ!」
「わっ」

膝に置いていた腕を思いっきり振り回した。もう何でも良い! なんでもいいから、変態から離れなければならなかったのだ。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! ぬとぬとした、べちゃべちゃした、どろどろしてた!! 滅茶苦茶に振り回したはずなのに目と鼻の先――寧ろ身体の一部が触れていたというのに当たらなかった相手に、しかしそれどころでなかった私はそのままベッドへ顔を押しつけた。シーツに埋まった顔に、左手でシーツを無理矢理引き寄せて顎を思い切り拭く。
あれは、あれは確かに舌の、舌の感触だ、きっとそうだ。そうでなかったらどれほど良かっただろう。けどそうだ、嫌だ、気持ち悪い!

必死で先ほどの感覚を消そうと拭っていれば、縮こまっていた体制を肩を持たれ強制的に持ち上げられる。
有無を言わぬ強さに、恐怖で身が竦む。ああ、なぜ僅かでも気を抜いたのか。今度は何をされるか分からない、だが腕を再び振り回そうにも肩がこわばって動かなかった。

「ダメですよ! 傷になったらどうするんです」

僅かに鋭い声に、肩が更に強ばる。しかし、顔に触れたのは暖かな――布の感触だ。先ほどの気持ち悪いぬめった舌ではなく、お湯を絞ったタオルのような布だ。
身体をガチガチに縮こませながら、その布を肌にしみこませられるように抑えられ、丁重に舌で舐められた箇所を拭われる。
な、なんだ、こいつ。

「はい。もういいですよ」
「……」
「ああ、疲れちゃいましたか? いっぱい食べましたからね。ゆっくり寝ててください」

何もなかったかのように、なんでもない口調で労られる。
そのまま流れるように頭を撫でられて、気味の悪さに悪寒が走った。だが、相手はそんなことは知らぬ存ぜぬで、ベッドに置いていた皿などを持ってベッドから立ち上がる――ような音が聞こえた。沈んでいたベッドも持ち上がり、男との距離が開いたことが伝わってきた。

「じゃあ、おやすみなさい。火花さん」

ゆったりと告げられた言葉に、目を向けずにやり過ごした。情けないことに、身体が動かなかった。


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