- ナノ -


02


別に、ヒーローになろうという気はないのだ。
ただ、自分が助けられる範囲は。動ける範囲は手を伸ばせるような人間になろうと考えていただけで。
なので、これは認識の甘さが招いたことだった。情けなくて嫌になる。
そんなことを、目の前に迫るトラックを見ながら思った。
猫がいたのだ。茶色の縞模様の可愛らしい猫。母がトイレに寄っていて、父が道を確認するために地元の人へ地図を片手に尋ねていた時。丁度時間が空いて、少しだけその場を離れてしまった。自分の視界の中に父の姿を見るようにしていたけれど、丁度父と反対側に猫が見えた。
言い訳をするのなら、前世で猫を飼っていた。……正直、それしかない。
可愛いなと思って、つい足が向いた。猫はこちらに気づかずに、少し広い道路に一歩踏み出した。丁度そのとき、トラックが速いスピードでやってきた。猫は驚いて、引き返すのではなく道路へと飛び込んでいったのだ。
咄嗟に手が伸びて、同時に後悔して、しかし飛び込んだ道路に後戻りができないことを察してそのまま駆け出した。
猫を抱きしめた瞬間に、真横にトラックが見えて、私は泣いている両親の顔が脳裏に浮かんだ。

ああ、なんて親不孝なやつだろう。きっと地獄行きだ。

足を緩めることはしなかった。けれどあまりにも展開は見え透いていて、脳裏に浮かんだ二人にひっそりと謝罪した。

『死なないでください』

泣きそうな声が聞こえた。けれどその声は母にも父にも似ておらず、誰のものか分からなかった。しかしそれも、迫り来る音にかき消える。




死んだ――のだろうか?
痛みは感じなかった。理解する前に意識がなくなったのかもしれない。
しかし不思議なことに息を吸い込む感覚がする。口から空気が流れ出て、僅かに冷えた温度が喉元を通る。
――生きて、いる。
また、生まれ変わったのだろうか。記憶を持ったままで。
そう思ったが、二度目の時に最初に感じたのは激しい痛みや混乱、周囲からの苦痛に感じられるほどの感覚だった。それとは全くもって異なる。
なら――私は死ななかったのだろうか。
何かしら奇跡が起こり、運のいいことに生き延びたのか。
ならここは病院だろうか。ああ、早く目を覚まして両親に無事を伝えなければ。謝って、謝って、そして許して貰いたい。危険なことをしてしまったことを、置いて逝ってしまいそうになったことを。心配をかけたことを。
一つ大きく息を吸って、目を開けようとする。しかし、目は開かなかった。何かに押さえつけられるように瞼が動かず。息が詰まるような動揺が走る。
思い浮かんだのは目の前に迫っていたトラックだ。あのトラックと衝突した場合、当然無傷とはいかないだろう。ならば、目が開かないのはその怪我のせいか。しかも、片方だけではなく、両方の目が開かない。唇に痛みを覚えて、自分が下唇を噛みしめているのだと察した。自分の後先考えない行動で起こった事態に、悔しさでいっぱいだった。
無個性もどきに加え、盲目。両親の心労はいかほどだろうか。深い罪悪感に溺れそうになって、今はそれどころではないと頭を振る。
身体に痛みはなかった。手元を探ってみると、肌触りの良い柔らかな感触に、病院にいるであろうという推測も相まってシーツだろうと結論づける。
寝そべっているベッドらしき場所に膝をつけて、ゆっくりと上半身を起こす。長らく寝ていた時に生じる節々の痛みは感じたものの、それだけだ。怪我特有の表面から感じるような痛みはない。怪我は目元だけなのかもしれない。僅かに安堵し、そのまま手探りで周囲を探る。
広いベッドなのか、それとも私の腕が短いせいか。シーツや身体にかけられていたらしい布意外の感触がない。
ゴクリと一つ唾を飲み込んで、喉から音を出した。

「あ、の。誰か、いませんか」

声は、意外にもスムーズに出た。喉は渇いているが、それだけだった。音が出ないほどにカラカラではない。
寝ていた時間はそれほど長くないのだろうか。それとも、何か長らく寝ていても喉に負担をかけないような処置をされたのか。しかし、声が出ると分かったのは良かった。

「母さん、父さん、起きたよ、ねぇ、どこにいるの?」

少し声を大きくして、どこに向けるでもなく問いかける。
きっと心配しているであろう二人を安心させたかった。泣いてしまうだろうか、それとも怒られるだろうか。どちらでもよかった。ただ早く二人に会いたい。
けれど、声は帰ってこなかった。この部屋にはいないのだろうか。けれど、二人の声も帰ってこないが、その他の声も何も帰ってこなかった。
看護師の声、他の患者の声、話し声、足音、物音――一切、聞こえない。

「だ、誰か、いませんか」

最初と同じ事が咄嗟に口に出た。けれど、そのときよりも心臓の音がうるさかった。
何も聞こえなかった。自分の呼吸音や脈の音、声意外。何も。
シンと静まりかえって、脈動が五月蠅いぐらいだった。キーン、と耳鳴りが追加される。
どうして、誰もいないのか? いや、それだけじゃない。物音一つしないなんて、おかしいんじゃないか。
途端、じわりと不安がにじみ出す。そしてそれは直ぐに恐怖の色を帯びていった。
なぜ。私は聴覚までやられてしまったのだろうか。けれど、それなら自分の声だって分からないはずだ。脈動も、息づかいも聞こえないはず。

「あ、あの! すみません! 誰か!」

目が見えないというのは、これほどまでに恐怖を誘発させるのか。
恐ろしさに思考が狭まり、焦りに声が震える。必死で周囲に手を伸ばして、手当たり次第にベッドの上を這い回る。
そうだ、ナースコール。ナースコールを押せば看護師が来てくれるはずだ。
そう思って性急に膝を動かせば、伸ばした先の手のひらが虚空を掴む。
え? と声が出るか出ないかの先で、身体ががくんと傾いた。丁度片手で身体を支えていた時に虚空を掴んだために、そのまま虚空へと身体が吸い込まれるように倒れていく。どうなるかも分からないが、ただ良くないことが起こっているのだけは分かった。

「危ない!」

滑り込んできた鋭い声に、開かない瞼の下の目玉が驚きに動く。
それと同時に、身体が何かに包まれた。そして、すぐにそれがなんなのか分かった。
私はよく父に抱っこされていた。だから、自分を抱きすくめるようにしたのが人なのだと理解できた。と、同時に人がやってきたことに深い安堵を覚えた。
頬が触れたのは、なんだろうか。ふわふわとした触感がした。手が触れた先は、滑りの良いしかし僅かに凹凸のある感触。皮の服、だろうか。

「あ、の」
「ああ。起きたときに誰もいなかったから探してたんだね」

思考を読んだように正解が飛び出して、思わず口を噤んだ。この人は誰だろうか。声色から男性のようだった。重くない口調に若い年齢であるような雰囲気がある。優しげと呼称してよさそうな言葉遣い。

「だ、誰ですか」
「その前に、君の名前を教えて」

ゆっくりと体制を戻されて、ベッドに戻される。その手の動きはとても丁寧で、まるで壊れ物の人形を扱うようだった。それに、自分はやはり怪我人なのだと感じる。
医者、だろうか。

「火花、です。明堂火花」
「火花、君」
「はい」

自分の名前に頷けば、相手の声がそこで途切れる。
何かを確認しているのだろうかと待ってみるが、紙をめくるような音も、何かを操作するような音も、道具を扱うような物音も聞こえずにまたじわりと焦りがにじむ。どうしたのだろうか。私は何かまずいことを言ったのだろうか。私の名前は確かに明堂火花のはず。

「火花君」
「は、はい」

聞こえてきた声に、ひっそりと安堵の息を心の内でつく。
返事をすれば、布同士がこすれる音がして人が近づいてきたのが分かった。目も見えないのでどう動くのが正解か分からずただその場でじっとしていれば、何かに包まれた。また、人だ。抱きしめられている、ようだった。耳元で、人の呼吸音が聞こえた。

「もう、怖いことはないからね」
「怖い、こと?」
「そう。命の危険も、人の目も、何もかもから俺が守ってあげるから」

この人は――何を、言っている。
激しい違和感が心中で膨れ上がる。変だ、この人は。
命の危険? 人の目? 何を言っているんだろう。

「あの、父さんと母さんは」
「俺がいるから」
「おれ、家族と旅行に来てて」
「俺がずっとそばにいるから」
「猫、助けようとして、トラックに」

ぐっと包まれる力が強くなって、言葉が詰まる。まるで私の言葉を拒否するようなそれに、焦りと、恐怖が滲む。

「俺が助けるから」

強く紡がれた言葉に、息をのむ。なんだ、この人は、誰なんだ。
必死で震えないように力を込めて、問いかける。

「貴方は、誰ですか」

僅かに包む力が弱まって、衣擦れの音と共に包んでいた右側が動く感覚がした。それはそのまま移動して、先が私の目元へと触れる。
指先だ。指先が、私の目元に触れている。しかし、怪我をしているであろうそこは痛みはなかった。思えば、最初から痛みはなかった。痛み止めのせいかと思ったが、その指先に撫でられるような感触に違うと確信する。
目玉も、瞼も、問題ない。上からゆっくりとなぞらえるように触れられて、怪我などしていないと悟る。
それなら、何故私は目が見えないんだ。
心臓が激しく脈打って、爆発しそうだった。

「俺は、ホークスですよ。火花さん」

告げられた声は、確かにテレビで流れていたものと同じ声をしていた。


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