- ナノ -


08


強烈な風が吹いたかと思ったら、周囲の景色が一変していた。外にいたはずなのに、そこは室内だった。
心臓が軋むような音を立てた気がして、息が苦しい。ああ、くそ、墓穴を掘った。
男は私が通ってきた道を早足で遡る。大きな音を立てて扉を開けて、扉を開ける時間さえ惜しむように羽を巻き付けて扉を開けた。
肉体的な危害を加えられていないのに痛む身体をどうにか動かして抵抗すれば、視線がこちらを向いて身体がびくつく。それでも、諦めるつもりはなかった。
最後まで抵抗して、元の部屋のベッドの上でようやく手が離される。柔らかいベッドの上に落ち、慌てて体制を立て直し後ずさる。

「……火花さん」

薄暗い室内で、翼を持った男がこちらを見下げてくる。三白眼は睨み付けるようで、ゴクリと喉が鳴った。
恐ろしさに更に後ずされば、目も終えない速さで足首を捕まれる。本当に驚いて、身体が激しく震えた。

「は、離して、離して、ください……!」
「どうしてですか」
「ッ、来ないで……ッ」
「なんで、分かってくれないんですか」

気味の悪いほど平坦な声は、背筋を這いずってくるようだった。足を掴んでいない方の手で、手首を捕まれてベッドにはり付けにされる。
一瞬、頭が真っ白になった。目の前に男の顔が覗く。チラチラと死という言葉が姿を見せた。

「ぁ、あ、や、やだ」
「俺ですよ、ねぇ」
「離して、離せ、離せッ! 変態、犯罪者、ヴィラン!」
「ねぇ、貴方の、貴方だけのNo.2です」

見つめてくる目は血走っていて、がむしゃらに暴れた。自由で足で蹴りつけて、腕で殴りつけた。けれど、一つも効いていない。振動さえ届いていないかのような男に、だんだんと力が弱まっていく。嫌だ、なんでだ。なんでこんなやつに良いように扱われなきゃいけないんだ。
頭のおかしい犯罪者に。こんな馬鹿げた男に。殺されるのか、犯されるのか。それとも、もっと酷い目にあうのか。
信じられない、何もかもが。

「呼んでくださいよ。俺の名前」

男が濁った目で私を見てくる。その瞳の奥に、私ではない何かを写しながら。

「ホークスです。貴方のNo.2です」

戯れ言をのたまってくる。嘘ばかりの言葉を押しつける。
お前が、お前がホークスであってたまるか。お前なんかが、お前のようなヴィランが。

「お願いです」

男の眉が、情けなく下がった。まるで弟が兄に頼み事をするように、愛嬌で乞うように、警戒心を削ぐ顔を覗かせる。
血走った目はそのままのくせに、人の哀れみを誘うような表情に様変わりした。
それに、ドクリと心臓が大きく鳴り響いた。冷たかった身体に熱が生まれ、指先にまで血が通う感覚が駆け巡る。
どろりと甘い声色での言葉は密語のようで、まるで以前から親しい仲かと勘違いさせるような妙な説得感があった。
それはきっと最後の一押しだった。与えられた恐怖が一気に流転する。熱い――燃えるような、その感情は。

「――ふざけるな」

怒りだ。

眼前が、真っ赤に染まる。頭を殴られたような衝撃で、ぐわんぐわんと脳内が揺れるようだった。
身体がぶるぶると震え、握りしめた拳から内部が割れるような音が響いた。

「ホークスは、」

朱に染まった視界の中で、バチバチと網膜に光りが弾ける。
気に食わない、信じられない、馬鹿馬鹿しい。何もかもが、この状況が、目の前の男が。全てが!
怒りが熱さに変換され、身体を燃やすようだった。真っ赤になった視界の中で、男が瞠目する。

「お前のような矮小な男じゃないッッ!!」

叩きつけるように、怒りを叫ぶ。ホークスを、ヒーローホークスを、お前のようなゲス野郎と同じにするな。
怒りが弾けた瞬間に、再び、強い爆風が吹き荒れた。
それと同時に、意識が浚われるように千切れていく。真っ赤な視界の中で最後に見たのは、ゴーグルに映る炎の塊だった。


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