- ナノ -


07


『死なないで、ください』

弱々しい声だ。思わず手を伸ばしてやりたくなるような、情けない音色だった。
だがそれに応えることも、手を伸ばすこともできなかったし、それは私の役目ではなかった。

『俺は、貴方のために』

馬鹿らしい、私のためなどと。
それは真実『私のため』などではない。
エゴだ。私と同じ。自分のことしか考えてなどいない。だからきっと私は死ぬのだ。してはならないところで失敗するのだ。

『――――さん』

なぁ、誰を呼んでいる? お前は誰を――。


僅かに、意識が途切れたことを自覚して直ぐに頬を抓った。子供の身体は眠気が強くて叶わない。
暫く、唇をかみながら時が過ぎるのを待った。そして体感ではあるものの五時間ほど経過したのを確認し、極力音がでないように身体を動かし始めた。
ベッドから出て、壁を伝い、棚へとやってくる。引き出し式の棚で鍵はかかっていなかった。その中から文房具が入っている箇所を開く。部屋を探索している最中に見つけた、その中のハサミ。大人用の子供にとっては扱いづらい物だが、贅沢は言っていられない。
周囲に音がないのをしっかりと確認して、ハサミを手にする。刃にゆっくりと手を沿わせて、ある程度の鋭さがあるのを確かめる。ハサミを開き、そのまま片方を頬へとつける。頬を傷つけないように気をつけつつスライドさせ、目元の目隠しと肌の隙間に差し込んでいった。
目の見えない状況で刃物を使ったのは初めてだ。細心の注意は払っているものの、状況も相まって緊張が走る。差し込まれたのを確認して、慎重にハサミを閉じた。
軽い音がして、指を這わしてみると目隠しが一部だけだが切れていた。隙間ができればこちらのものだ。切れた端を持って剥がしていく。
それは綺麗に剥がれていった、直ぐに両目が見えるようになっていった。といっても、開けた視界は暗く、窓から差し込む光のみしか光源はなかったが。窓からの光源は、街の光のようだった。どうやら街中のマンションか何かのようだ。しかも僅かに見える景色からして、ビルの上層階のようだった。金持ちであるという予想は当たっていそうだ。
手元の取れた目隠しを見てみると、短い布のようなものが何枚も重なっていたようだ。一枚取れた後は、他もすぐに剥がすことができた。あれほど剥がすのに苦心していたのに、刃物を入れた瞬間にこれとは少し拍子抜けだった。

「……は、ね?」

時間はないが、男の個性の可能性もあると実物をよく見るために窓の方へ移動してみれば、それは羽だった。色合いはよく分からないが、何枚もの羽が手のひらにのっていた。それに、嫌な予感がよぎる。ホークス、啓悟、剛翼……。男はもしかして姿形や個性を真似る個性持ちか。
確かヒロアカの漫画の中でもそういった個性を持っているキャラクターがいた。男もそれ系統かもしれない。そう考えると、かなり不味い状態だ。どれほどオリジナルに近い個性を扱えるかは分からないが、ヒーローホークスの剛翼は様々なことができたはずだ。今、こうして羽を切ったことももしかしたら察知されている可能性がある。
ここで引くことも手だが……。直ぐにあの男がやってこないのを考えるに、すぐ近くにいないか私を泳がせようとしているか、またはそこまでの感知能力がないことが予想される。ならば、ここで目隠しをされ直すのをただ待つのではなく行動するべきだろう。
ハサミは護身用として手に持つことにした。これを使用しないことを祈るばかりだ。

足音を立てないようにしつつ扉の前に移動する。触感で確認したように、ドアノブに鍵はなかった。鼓動が五月蠅く鳴り響くのを感じながら、手をかける。絶対に音をさせないようにとスローモーションのようにドアノブを下げていく。床と垂直になるまで下がりきって、そのままドアノブを引いた。

「(開いた……)」

呆気ないほどに扉は開いた。先には、廊下が左右に広がっていた。どこからかの窓から差し込む光で、どうにか足下が分かるぐらいの明るさがある。

「(行くしかない)」

ハサミを握りしめ、一歩踏み出す。
廊下はひやりとしていて、冷気を感じた。部屋と同様、全く見覚えのない場所に誘拐された事実を強く感じる。
周囲の音がないこと、不審な物がないことを確認し、扉をまた焦れるほどにゆっくりと締め直した。
足音をさせないように、出口を探し出さなければ。

「(かなり状態が綺麗、あんまり長く住んではいないのかな)」

緊張に冷や汗を流しながら、息を潜めて歩を進める。途中ですれ違った扉は、どこかの部屋へと続く扉と、洗面所らしき扉。
部屋への扉は私が出てきた扉と全く同じだったため。洗面所らしきところはドアノブではなく引き戸形式で、運の良いことに僅かに開いていたため中の様子がある程度分かった。どちらの扉からも物音はしなかったが、わずかに開いていた引き戸はともかく、もう一つは分からない。私が監禁されていた部屋も扉を閉められれば物音一つしなかったため、中に人がいる可能性は十分にあった。そこで、男が寝ている可能性が。
その扉を必死で息を潜めながら通り過ぎ、残された再度の扉は、引き戸式のガラスが張られた扉だった。じっと息を潜めて音を探る。
一切、何も聞こえないように思えた。ガラス越しにも、動くような影は見られない。
だが、引くとしたら音が出る可能性がある。ドアノブの時よりも慎重にいかなけらばならない。
痛む心臓を抑えて、ゆっくり、ゆっくりと扉に手をかけて、一見動きが分からないぐらいのスローペースで扉を開けていった。

「(怖い)」

徐々に、戸の奥が見えていく。
真っ暗だが、僅かに窓からの光が漏れている。

「(怖い、すごく、怖い)」

両手を使っているから、ハサミが握れない。ズボンの間に挟んでいるから、今襲われたら無抵抗に捕らわれてしまうだろう。
嫌だ、嫌だ。もうあんな時間、少しだって過ごしたくない。早く父と母の元へ帰りたい。一刻も早く。
それでも、必要以上の力がかからないように気力でセーブをかける。だが、途中で扉が動かなくなった。

「(な、なんで、何か噛んでる?)」

しかしどうして開かないかなど、薄暗い空間では見てみても分からなかった。
開かれた隙間は、ギリギリ私が横を向いて入れるか入れないかぐらいだ。無理矢理扉を開くこともできるが、そうすると十中八九音が鳴るだろう。
一つ息を吐いて、身体の向きを変える。少しでも息を吐いて気持ちだけでも面積を少なくさせながら隙間を通り抜けた。
細い隙間を抜けた先はリビングだった。

「(物が少ない、本当にここに住んでる?)」

机にテレビやソファ。システムキッチンはあるものの、言ってしまえばそれのみだ。私物が少ないどころか、ないと言ってもいい。
リビングに物を置かない主義といっても、生活感が漂う物が一切ないのは明らかにおかしかった。住み始めて間もないとしても、段ボールの箱なども一つもなく、ただ夜中の冷気とは違う人の気配のなさ故の冷たさが漂っている。モデルハウスといわれて納得してしまいそうな部屋だった。
一種の気味の悪さを感じつつも、すり足でリビングにあった別の扉に向かって歩を進める。
同じくガラスが張られた扉だ。しかし、ここがリビングだとしたら――玄関まではもうすぐのはずだ。
急いていた心が更に急くのを感じて、震える息を整える。ここでミスをしたらここまでの努力が水の泡だ。今こそ、しっかりしないといけない。

「(父さん、母さん)」

二人を悲しませない。絶対に。
体感で何十分もかけて扉の前に移動し、先ほどと同じ要領で慎重に慎重に扉を開けていく。
開けた先、暗闇が一層深くなる廊下の先に――目指したものがあった。他の扉とは形状が違う、一段下がった床、玄関だった。
喜びに打ち震えて、緊張に冷や汗がどっと出た。喉がカラカラに渇いて引き攣るようだ。気を、抜くな。気を引き締めろ、まだ何も終わっていない。
慎重に、慎重に歩み始める。たどり着いた先、予想したとおりではあったが私の靴は置いていないようだった。なら、素足で出て行くしかない。
扉を見つめ、鍵が二つあるのを確認する。だが、当然内鍵なので私でも外すことができる。
背を伸ばせば届く鍵。極力音がでないように回していくが、最後にカチャリという金属音だけはどうしても鳴ってしまった。心臓が跳ね返り、吐き出しそうな感覚に襲われる。手が震えて、手汗で気持ちが悪い。
それでも、もう一つに手を伸ばして同じように鍵を開ける。再び鳴った音に、歯を食いしばりながら耐えた。

「(他に鍵はない。外に、出られる……!)」

今度の扉は、重かった。外界へと続く扉、金属でできており重いのはわかりきっていたが、この身体にはきつい重量だ。
それでもゆっくりゆっくり開けていって、どうにか外へ転がり出た。
強い光があるわけではない。けれど、外は明るかった。室内の廊下ではなく、外と直接繋がっているような仕組みのマンションだったらしい。冷えた空気を肺に感じて、久方ぶりの外に涙が出そうになった。空を見上げると、月が出ており周囲を照らしている。本当に、外に出たんだ。
床のコンクリートの感触を何度も触る。幾度も息を繰り返して、ようやく足に力が入るようになった。
まだ、終わりではない。逃げなければならない。そして助けを呼ぶ。警察に、ヒーローに。

「どうしたんですか、こんなところで」

耳障りの良い声。それは、聞いたことのある声だった。
いや、あの生活で嫌でも聞き慣れた声。全身から汗が噴き出して、手足の末端から冷え切っていく。
まるでブリキのおもちゃのように動きの悪い首を右へ動かせば――そこには、蜂蜜色の髪色をした男がいた。薄い黄色のゴーグルをかけ、髪色と同じ服の色のコスチュームを着て。赤い翼を持った、男。

「……ほー、くす」
「はい。貴方のホークスですよ」

上がる口角、細まる瞳。軽薄な笑みだった。
漫画とは異なる、そう、ニュースで見た少し髪が短い姿。確かに、ヒーローホークスの姿をそいつはしていた。
けれど分かる。『こいつはホークスじゃない』。圧をかけるような雰囲気、重量があるかのような甘ったるい声、物をみるかのような目線。あれは、ヒーローがするものではない。少なくとも、私はそう直感した。
紛れもない、欲が滲んでいる。支配欲か、嗜虐欲か、なんなのかは知らないが善人がする表情ではない。犯罪者の顔だった。

「ッ」

待ったはかからない。時間は戻らない。犯人は私が必死で逃げ出した家の外にいて、鉢合わせした。それが全てだ。
何もかも無駄だったのを感じながら、それでも全てドブに捨てられないと私はその場から駆け出した。
やれることは全てやる。このまま閉じ込められてたまるか、このまま振り出しに戻ってたまるか。私はあいつの人形じゃない、私は人だ。生きてる、生きなきゃ。
犯罪者は確かにホークスそのものの姿をしていた。おそらくそういった個性なのだろう。最低な個性だ。救いを差し伸べるヒーローの姿をしやがって。

「は、誰か、誰かッ」

男とは反対方向へ駆け出して、緊張で狭まる視界で必死で人を探す。しかし夜中らしい今の時間帯に私の視界の先には人は誰も映らない。それでも必死に足を動かせば、階段がみえた。神は私を見放さなかったらしい。私はそのまま階段を下へと駆けていく。

「待ってくださいよぉ」

背後から聞こえるのんきな声と、わざとらしい足音。
心臓がぎゅうと捕まれるような気がして、息が詰まった。それでも、動きをとめてなんかやらない。
階段を下りながら、足が縺れて何度も転びそうになった。目の前がぼやけて、息が苦しくて、無駄なんじゃないかという声が頭へ響く。
ダメだ、ダメだダメだ。諦めてなんかやらない。足を止めてなんかやらない。この怒りを収めてなんかやらない。
人を勝手に拉致して、監禁して、好き勝手遊んで。許さない、許さない。絶対に、絶対に!

「ッあ」

身体が、浮いた。階段の上においた足裏が滑ったのだ。
踊り場まではまだ距離があり、押さない身体は宙へ投げ出される。
死、と単語が過り、しかしぐっと身体を縮めた。ここで死んでたまるか、死ぬのはあいつが逮捕された後だ。
絶対に諦めない。諦めないと誓ったばかりなのだ。傷だらけでも逃げれば勝ちだ。
ぎゅっと目を瞑って痛みに備え――しかし、痛みはやってこなかった。強烈な悪寒に苦虫を潰したような感情で目を開ける。目の前にはぶちあたるはずだったコンクリートが広がっており、私の身体は宙に浮いたままとなっていた。

「危ないですよ。怪我したら、どうするんです」

背後に声に、歯ぎしりの音が口から鳴った。けれど、それでも諦めてはならなかった。
頭や手、足に赤い羽根がまとわりついていた。それらが支えとなって、コンクリートにぶつかるのを避けさせたらしい。だが、それらにまとわりつかれるなら、怪我をしたほうがましだった。

「はな、して!」

身体に張り付いた羽を掴んで引き剥がす。一枚剥がせれば身体がガクついて、地面に落ちかけた。
だが、それを男が許さなかった。後ろから両脇に手を差し込まれて、そのまま抱き上げられる。

「ッ、やめて! 離してください!」
「わがまま言わないでくださいよ。ほら、危ないですから」

困った風な顔に腹が立つ。それがヒーローホークスの容姿をしているから尚更だ。
怒りがざわついて、殴りつけてやりたいと思ったがそれより先にやることがあった。自分ではこの状況から抜け出すことは困難だろう、なら自分以外の力を借りないといけない。逃げ出すことが第一目標だが、第二目標はSOSを発信することだ。

「誰か、いませんか!! 誰か、」

誰か異変を察知してくれ。子供の叫び声を聞いてくれ。助けを呼んでくれ、私の代わりに、誰か、誰かヒーローを。

「ヒーロー!! 助けて! ヒーロォー!!」

男から顔を背けながら精一杯叫ぶ。男は、口を塞ぐことはしてこなかった。ただ私をじっと見つめる視線だけは感じた。
怖い、気味が悪い。何を考えている?

「ヒーローなら、ここにいるじゃないですか」

いたく冷静な、そして平坦な声が目の前から聞こえた。冷えていた肝が、更に冷え切る感覚を覚える。
お前のようなヒーローがいるはずがないだろ。他人の子供を監禁するような、犯罪者のヒーローが。どんな事情があろうとも、許されることじゃない。しかしその声は、ただ純然たる事実を語っているかのような、そういった真っ直ぐさも含んでいた。……本気でこいつは、自分のことをヒーローだと思っている。
やっぱり頭がおかしいんだ。ああ、くそ、ダメだ。……怖い。
抱き上げられた腕の力は強く、まるで私が軽い人形のような気軽さだ。掴む手は大きく、獲物が逃げ出したというのに動揺の一つもない。
必死で顔を逸らして、空を見上げる。お願い、奇跡よ起こってくれ。助けてくれ、私を。どうか空から飛んできて。

「ホー、クス、ホークス、ホークス、助けて」

ヒーロー、ヒーローホークス。目の前に偽物がいるというのに、あまりにも滑稽だ。だがだからこそどこかにいると確信できた。
本物のヒーローが、助けを求める者に手を差し伸べてくれる正しい正義の味方がこの街には存在している。強くて、カッコイイヒーローがいるはずなんだ。
怯えに小さくなっても、どうにか声を絞り出す。だがそれも、ぶつかるように抱きしめられて無理矢理顔を男へと向けられたことで終わりを告げる。
ゴーグル越しに合った瞳は見開かれていて、琥珀色の目が酷く恐ろしかった。真っ直ぐに私だけを見つめている目線は焼けるようで、息ができない。

「どこ見てるんですか、いるでしょ、ここに」

明らかに低い声は、気分が害されたことを示しているようだった。
教え込むように遅々として発せられたそれらの言葉は、まるで脅迫のようだった。自分を見ろと、他を見るなと脅すような。
恐怖に全身を押さえつけられている、圧という麻縄で雁字搦めにされている。指さえピクリとも動かない。
男は瞬きもせずに私を見つめ続けた。

「俺が助けます、俺が救います、俺が守ります」

ああ、それは、正しく呪いだった。私ではない、男を縛る呪いだ。
己のエゴを、相手のためにと、それが最善なのだと心底信じるように、自分へと言い聞かせている。
だがそれは侮辱だ。私と――ヒーローへの。

「ちが、う。お前は、お前はホークスじゃ、ない」

開いた口はガタガタと震えて、歯の鳴る音で声が上手く発せられなかった。だが、目の前にいた男には理解できたことだろう。
お前の呪いは偽物だと、ただの思い込みだと。
そして次の瞬間――男の目はギラリと光り、背から伸びる羽が大きく広がっていた。


prev next